カテゴリ:歴史・民俗( 190 )

さっぽろ雪まつりの歴史は始まる前に調べておく


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札幌にとって、2月は雪まつりの季節である。
さっぽろ雪まつり抜きにして、札幌の2月を語ることはできない。
良くも悪くも、雪まつりは札幌という街の2月の中に、しっかりと組み込まれているのだ。

旅人ならともかく、札幌市民であれば、雪まつりの歴史くらいは知っておきたい。
もちろん、ネット上でコピペを繰り返されて拡散してきたような歴史を調べたっておもしろくない。
人々が忘れかけているような、埋もれた歴史を掘り起こしてくることが、歴史を知ることの真の楽しさである。

例えば、創設当初の雪まつりは、ずいぶん市民的行事の色彩の強いイベントだったらしい。
歌謡のど自慢コンクールや犬橇レースなど、いかにも微笑ましいプログラムも用意されていた。
花火大会では「ロマンス招待券」なるものが打ち上げられ、これを拾ったカップルを定山渓温泉に招待するという趣向も凝らされていた。

転換期は札幌オリンピックが開催された1972年の第23回雪まつりである。
オリンピック会場であった道立真駒内公園にも史上最大級の雪像が造られ、オリンピック中継とともに世界各国でテレビ放映されたことから、さっぽろ雪まつりの知名度は国際的に高まったと言われている。
大通西8丁目には聖火台が設置され、オリンピックの聖火が雪まつり会場で出番を待ったという時代のことだ。

さっぽろ雪まつりは、戦争で荒廃した人心を、どのように高めていくかという戦後の取組の中で生まれたものだ。
特に、札幌の冬は雪に閉ざされてしまえば孤島と同じであり、明るい街づくりは、札幌市にとって大きな課題である。
おまつりでも開いて、みんなで楽しくバカ騒ぎしようというのが、雪まつり最大の趣旨であり、市民の人々の願いでもあったのだろう。

雪まつりの歴史を調べるながら、街の歴史を少しずつ紐解いていくことで、現代社会は、ずいぶんいろいろなことを忘れてきているということに気付かされるだろう。

ちなみに、写真の本は、狸小路8丁目の古本屋「八光書房」で購入した「さっぽろ雪まつり30年史」。
さっぽろ雪まつりが、まだ市民のためのイベントだった時代の様子が、しっかりと記録されている。
1979年発行。

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by kels | 2018-01-22 20:22 | 歴史・民俗

北海道への知識欲はHTBまめほんシリーズで満たす

 
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世の中には知らないことがたくさんある。
知らないことの方が多いくらいだ。
いや、というよりも、我々は世の中のごく一部のことを、かろうじて知っているに過ぎないのが現実だろう。

それは、北海道に関しても同じことである。
今年2018年は、この島が「北海道」と命名されてから150年目である。
「北海道命名150年」事業で、今年の北海道は盛り上がるはずだ。

そのたった150年の歴史の中には、星の数と同じくらいの物語が詰め込まれている。
どれだけ紐解いたって、その歴史のすべてを手にすることなんてできやしない。
歴史は宇宙と同じくらいに壮大で謎に包まれているのだ。

それでも我々は、歴史の断片に触れずにはいられない。
この北海道という土地で、一体どんな物語が刻まれてきたのか、知りたいと思わずにはいられない。
人には、自分の暮らしている郷土を理解しないではいられない、不思議な本能のようなものがあるのかもしれない。

北海道の歴史に触れるためのひとつの鍵が、この「HTBまめほん」シリーズである。
1970年の第1巻「ひらぎし物語」から、1998年の第60巻「サケ」まで、全60冊。
1970年には、別冊として「すすきの案内」が出ているから、合計61冊の大シリーズである(少なくとも自分の手元にはそれだけある)。

北海道各地域の多様な文化がコンパクトにまとめられているから、旅行に出かける際に、豆知識を仕入れていくには最適である。
もちろん豆本だから、ポケットの中に入れたまま散策することだって可能。
北海道への知識欲を満たしてくれるツールとなること間違いない。

ちなみに、HTBまめほんシリーズは、古書店で入手可能。
価格は店によるが、1冊300円から500円くらいが相場だと思う。
全巻集めても場所を取らないことが気に入っている。

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by kels | 2018-01-21 07:52 | 歴史・民俗

小学3年生用副読本「札幌のおいたち」昭和33年版

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「札幌のおいたち(改訂版)」という名前の本を見つけました。
井黒弥太郎著、児童図書研究会編、みやま書房刊、150円。
奥付には、昭和33年4月15日改訂版発行とあります。

三年生になると、社会科で札幌市のことをいろいろお勉強します。
この本は、その時よいお友だちになってくれます。
札幌は北海道で一ばん大きなまちです。日本では9ばん目です。

札幌にすむみなさんは、まちのようすをいつも見ているので、
なんでもよくわかっているように思うでしょう。
けれども何か、ほかの人にきかれると、あんがいわかっていないものです。
そんなことでは、大札幌の子どもとして残念なことです。

りっぱなまちには、自分の町のことをよく知っている子どもがいます。
まちのきまりをまもり、まちをきれいにしようとする子どもがいます。
この本を読むみなさんは、先生やお友だちとじっさいにしらべたりおはなしあいをして、
札幌のことをよく知って、りっぱなまちの子どもになってください。


どうやら、この本は、札幌の小学校3年生用に製作された副読本のようです。
1958年に9才だった人たちなので、現在は68歳の方々が使用された教材ということになります。
そして、来年は、この本が発行されてから60周年になるんですね。

戦後の昭和30年代、札幌の街もどんどん発展していった時代だと思います。
副読本の内容も次々と差し替えなければ、リアルな街の説明が難しかったのではないでしょうか。
副読本を年代順に追いかけていくと、札幌の移り変わりがきっと分かるはずです。

当時の札幌の人口は50万人。
本当の札幌の発展は、この次の時代にやってくるのだということを、9才の少年少女たちは、自分たちの目で確認するとともに、その時代の発展を、自分たちの手で支えていくことになります。
by kels | 2017-12-24 06:20 | 歴史・民俗

戦後間もない時代の新聞を読むと、毎日のように住宅問題が取り上げられている

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建設すすむ市営住宅 板壁ながら引揚者には龍宮

解体材をめぐり紛糾に紛糾をつづけた授産博覧会資材は、ついに札幌市の手に帰したが、市ではこれで市営住宅八棟七十戸を総工費二百十万円で建設することとなり。
いま◆◆を押し分けて北二十四西五の市有地に来月完成を目ざして建築を進めている。
この市営住宅はアパート式で壁もない板張りの超耐乏住居ではあるが、家のない引揚者たちにはこれでも龍宮のような嬉しい存在。
市ではさきごろ行った住宅困窮調査に基ずき家のない人々に貸付けることになっている。

「北海道新聞昭和23年1月11日付け」(1948年)

戦後間もない時代の新聞を読むと、毎日のように住宅問題が取り上げられている。

増える人間に対して物理的に住宅が足りないという状況で、しかもその数は中途半端なものではなかった。
昭和21年だけで、引揚者数1万5千人(5600世帯)、戦災者数5500人(2000世帯)の受入れである。
東京のような大規模な空襲被害を受けたわけではない街としても、極端な住宅不足は明らかだった。

当初は、日本政府が収容施設の確保を図り、昭和23年以降は、札幌市としても、新たな国庫補助制度を活用して庶民住宅の建設を開始した。
昭和23年に市が募集した八十戸の住宅には、1500件近い申し込みがあったという。
市営住宅への入居は、まさしく夢のような暮らしであった。



by kels | 2017-10-15 18:15 | 歴史・民俗

北24条周辺が本格的に発展したのは、昭和20年代後半からだ

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「北の都心」とまでいわれる北24条周辺が本格的に発展したのは、昭和20(1945)年代後半から。
それまでは、一面にツクシやスギナが広がり、羊や牛が見られたという。
この北24条に「幌北引揚者住宅」が建ったのは昭和23(1948)年ころから25(1950)年にかけてで、入居者のほとんどが樺太など外地からの引き揚げ者だった。
北25西2に1戸13.5坪の建設省規格の建て売り住宅が、北25西3と北26西3に市営の木造平屋住宅40戸が相継いで建築された。

しかし、粘土質の軟弱な地盤で井戸を60センチも掘り抜くと赤い水があふれてくるなどの悪条件に苦労は尽きなかった。
建設省規格住宅を建て、昭和23(1948)年から約20年間、北26西3に住んでいた本間正二さん(64)は「北18条電停までは道路らしい道路もなく、夏でも泥だらけの道をゴム長靴で歩いたものです。春でしたかねえ。棟上げの終わった市営住宅の屋根が突風で道路1本越えた向こう側まで吹っ飛んだこともありましたよ」と当時を回想する。
この地区は、道路が悪いことや札幌市の最北部に位置していたため、まだ行政の手が届かず早くから住民の連帯意識が強く、市内で戦後初の町内会が発足したところでもある。

昭和27(1952)年9月の市電鉄北線の延長は、人の流れと街並みを変えた。
北24条電停付近は利用者が集中し、西5丁目通りには商店や市場が立ち並び始めた。
とくに昭和46(1971)年地下鉄南北線開通以来、飲食店が急増した。

「広報さっぽろ北区版昭和52年5月号」(1977年)


現在も残る幌北団地は、1棟のみとなった。
建て替えられたとは言え、戦後の歴史を物語る建物のひとつには違いない。
それにしても、人口減少が深刻化する現代では、戦後の人口増加問題はちょっと想像しにくいものがある。

昭和20年代の札幌市の人口急増は、社会的な背景が大きかった。
終戦間際では、本州での空襲激化を避けて疎開する戦災者が、終戦直後は、樺太からの引揚者や復員兵の受入れが、その大きな要因となっているらしい。
加えて、戦後のベビーブームで、人口の自然増も同時に進んだ。

それまで「人が住めない」と言われていた地域も、こうした事情を背景として次々と宅地化されていった。


by kels | 2017-10-14 22:58 | 歴史・民俗

幌北地区では市営団地の解体が進んでいる

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引き揚げ者多く住んだ「樺太団地」姿消す 札幌 年内に1棟に

戦後、サハリン(樺太)から引き揚げてきた人が多く住み、かつて「樺太団地」とも呼ばれた札幌市北区北24条周辺の市営住宅が、老朽化による取り壊しで姿を消しつつある。
かつて23棟あった建物は現在3棟まで減り、年内には1棟のみとなる見通し。


この地区の発展は、戦後間もない1948年ごろから建設された引き揚げ者住宅が原点だ。
辺りは舗装路もない湿地で、住民たちはぬかるむ道を夏でもゴム長靴で歩いたという。

引き揚げ者住宅は61年から順次建て替えられ、引き揚げ者以外も住むことができる市営住宅「幌北団地」となったが、継続して住む人も多く「樺太団地」と呼ぶ人もいた。

「北海道新聞」2017年8月5日付け


久しぶりに北24条界隈を歩いた。
夏に読んだ新聞記事のことが気になっていたからだ。
団地の解体作業は順調に進んでいるらしい。

今となっては、この街が戦後に生まれた新しい街だとは、誰も思わないだろう。
北大前から続く大通りが中心を走り、地下鉄さえ通っている。
70年前には飛行場だった土地は、見事な住宅街として生まれ変わっている。

幌北団地は、この街が戦後に誕生した街であることを物語る生き証人のような建物だったような気がする。
急激な人口増加に住宅供給が追い付かなかった時代。
市内の至る地域が宅地化されて、団地やらアパートやらが次々と建てられていった。

将来発展する大札幌の住宅地区を建設するため、市ではこのほど旧札幌飛行場跡地約五万八千坪を購入。
近く融雪を待って土地整備に乗り出すことになった。
市ではかねてから北二十四-二十七、西五-十一、旧札幌飛行場跡地五八、六二十坪の国有地払い下げについて財務局と交渉中であったが、このほど一千万円で購入することに決定。
団地を発展する市の一部として分譲住宅地とする計画を立てており、さしあたり本年度事業として二千万円の予算で歩道、車道、排水管の敷設など土地整備を行い、二十七年度には電車路線を敷設、車庫を建設し、小公園、防風林など緑地帯をつくり、理想的な住宅地として市民に分譲するほか、道立高校、消防学校、聾学校用地として道に分譲することも予定している。

「北海道新聞」1951年4月5日付け


こうして、昭和26年、市営住宅を中心とする戦後の街づくりが始まった。




by kels | 2017-10-14 22:13 | 歴史・民俗

「札幌1957」の表表紙と裏表紙には、札幌中心部の空撮写真が見開きで使われている

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札幌を北海道の首都にする考えは既に江戸時代の探検家たちの脳裏にうかんだ。
建設は明治二年からはじまり、担当者は島判官、岩村判官、さらに西村権監事へと移ったが、その間に都市計画の輪郭は固まった。
開拓使次官黒田清隆が米国からつれてかえったケプロンをはじめ、雇外人76人が都市建設に加わり、当時としては類のないモダンな都市ができた。

「札幌1957」岩波写真文庫(1957年)

「札幌1957」の表表紙と裏表紙には、札幌中心部の空撮写真が見開きで使われている。
写真の左手に大通公園が東に向かって走っている。
キャプションには「西から見た札幌市街」とある。

大通公園の南側に札幌三越と札幌丸井今井の二大百貨店がある。
その向こう側に創成川が南北に走っているのが見える。
西一丁目にある高いタワーは、三岸好太郎の作品にも登場する消防望楼だ。

特徴的なのは、平屋建ての建物がびっしりと建ち並んでいることである。
三越や丸井今井のような大規模なビルはともかく、ビルらしいビルというものは決して多くない。
この時代、中心部の建物は、商家であってもまだ平屋建が普通だったらしい。

おもしろいのは、札幌中心部に札幌駅周辺が入っていないことである。
札幌中心部と言えば、長く大通公園周辺の一帯を差していたからだろう。
現代であれば、札幌駅から南に向かって臨む風景が札幌中心部と紹介されるかもしれない。


by kels | 2017-05-14 05:51 | 歴史・民俗

今年、僕は「札幌 1957」を持って、60年後の札幌の街を歩いてみたいと思う

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岩波写真文庫に「都会の記録シリーズ」がある。
戦後の都会の風景を写真として記録しておこうというものだろう。
現在となっては、まさしく貴重な記録である。

このシリーズに我が街「札幌」も含まれている。
「札幌 1957」とあるから、昭和32年当時の札幌を記録したものだろう。
現代の札幌とは異なる風景が、そこにはある。

今年2017年は、この1957年からちょうど60年である。
遥か60年前なのか、たった60年前なのか、僕には分からない。
ただ事実として、60年という時間は札幌の街を大きく変えた。

今年、僕はこの本を持って、60年後の札幌の街を歩いてみたいと思う。
60年間で何が変わり、何が変わっていないのか。
自分の生きる街が、どのように成長してきたのかを確かめるために。



by kels | 2017-05-13 07:06 | 歴史・民俗

今、僕は、東京から札幌まで24時間を要した時代の日本を旅してみたいと思っている

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東京から札幌までは二十四時間で着く。
そんなに早いのか、と初めての人は驚くであろう。
しかし、上野で汽車に乗ると、青森までは実に長い。
急行で十二時間かかる。
仙台までが六時間、そこから先が六時間である。
(略)
青森で連絡船に乗ると、ほっとする。
四時間の船の旅の後に、函館が見えてくる。
(略)
函館から急行で八時間ほどで小樽に着く。
そこから四十分ほどで札幌に着く。

「夏の北海道」伊藤整(1940年)


昭和15年当時、東京から札幌までは24時間を要したらしい。
まさに、丸一日の大旅行である。
もっとも、当時の人たちは「そんなに早いのか」と驚いたようだから、東京の人たちにとって、いかに北海道が遠い存在であったかが分かる。

なにしろ、中国大陸の満州が日本国だった時代である。
その満州に比べれば、北海道なんて近いに決まっているような気がする。
それでも、東京の人たちの感覚的には、満州も北海道もあまり違いはなかったのだろうか。

それにしても、東京から札幌までの24時間の移動を、人々は何を考えながら過ごしていたのだろうか。

札幌から東京まで寝台列車が走っていた時代、僕は何度かこの列車を利用したことがある。
(という言い方ができるようになってしまった)
その頃、札幌から上野までの所要時間は16時間であった。

寝台列車だから、夕方に札幌を出発して、翌朝に東京到着である。
ほとんど寝ているだけの移動だけれど、それでも、この移動時間は非常に長く感じられた。
長い移動時間を楽しむことに、札幌から東京まで列車を使うことの意義があったのだろう。

今、僕は、東京から札幌まで24時間を要した時代の日本を旅してみたいと思っている。

by kels | 2017-05-07 18:05 | 歴史・民俗

昭和3年、北海道で初めてのラジオ放送が始まった

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「Pokémon GO」を始めて一週間経った。

このゲームは、モンスターボールをポケモンにぶつけてゲットしていくゲームだが、モンスターボールは、街の中に設定された「ポケストップ」と呼ばれる場所を実際に訪れて入手しなければならない。
ポケストップは主要なモニュメントなどに指定されている場合が多いが、意外なものがポケストップに指定されている場合もあったりしておもしろい。
実際に街を歩くことで再発見できる札幌もあるということだろう。

写真は中島公園に設置されたNHKの放送記念碑である。

日本のラジオ放送が始まったのは大正14年のことで、翌15年には日本放送協会の北海道支部が設立され、昭和3年、北海道で初めてのラジオ放送が始まった。
ラジオ放送に必要な施設である「演奏所」は、中島公園の豊水通り沿いに設置された。
演奏所の隣には中島球場があったらしい。

放送初日のプログラムには、天気予報、ニュース、音楽娯楽、料理放送などがあった。
ちなみに、現在も続いている朝のラジオ体操の全国放送は昭和4年に開始されているが、札幌でのローカル放送は昭和3年から始まっていたそうである。
札幌師範学校の教官が、毎朝体操指導を行ったらしい。

この中島公園の演奏所はテレビ時代が訪れて、大通にNHK放送局が開設されるまで活躍した。


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by kels | 2016-07-31 08:05 | 歴史・民俗