カテゴリ:旧・札幌エピソード( 372 )

明後日12日は、原田康子の生誕90年目の節目である

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羽生輝さんの挿絵は素晴らしいのだが、人物画にヒロインの女性たちの顔が出ると、絵のイメージが独り歩きしてしまうと、原田先生は好まれなかった。
だから、画家は大変だったと思う。
人物画が少なくなると、街並みや自然の風景が増える。
そうすると絵に色気がなくなってしまうので、編集者としては、いささか頭の痛いところではあった。
作家と画家の意見が合わないときのため、予備カットを用意しておいてもらったものである。

「『海霧』新聞連載の頃」谷口孝男(2005年)


原田康子。1928年1月12日、東京中野生まれ。
1930年、釧路市川上町に移住し、原田康子は、釧路の人となる。
後に、釧路を代表することとなる偉大な作家のルーツ。

明後日12日は、原田康子の生誕90年目の節目である。
地元新聞で紹介されるなど、郷土の作家が再び光を浴びつつある。
北海道文学を愛する者にとって、郷土の作家に光が当たることは非常にうれしいものである。

裏を返すと、日頃、郷土の作家に光が当たる場面が少なすぎるということがある。

現在、普通に入手できる原田康子の作品は、新潮文庫版「挽歌」のみ。
その他の作品は、古書で探すしかない。
これではとても、郷土の作家を次世代に受け継いでいくことなどできないと、僕は思う。

昨年、コーチャンフォー各店舗で、原田康子の「海霧」が限定復刻された。
「幻の名作」の復刻とあって売れ行きも良かったようだが、そもそも代表作が「幻」になること自体、どうなんだろうか。
原田康子に限った話ではないけれど、北海道にも素晴らしい作家がいたのだということを、子どもたちに語り継いでいくためにも、我々はもっと考えなければいけないことがあるような気がする。



by kels | 2018-01-10 20:19 | 旧・札幌エピソード | Comments(0)

小学3年生用副読本「札幌のおいたち」昭和33年版

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「札幌のおいたち(改訂版)」という名前の本を見つけました。
井黒弥太郎著、児童図書研究会編、みやま書房刊、150円。
奥付には、昭和33年4月15日改訂版発行とあります。

三年生になると、社会科で札幌市のことをいろいろお勉強します。
この本は、その時よいお友だちになってくれます。
札幌は北海道で一ばん大きなまちです。日本では9ばん目です。

札幌にすむみなさんは、まちのようすをいつも見ているので、
なんでもよくわかっているように思うでしょう。
けれども何か、ほかの人にきかれると、あんがいわかっていないものです。
そんなことでは、大札幌の子どもとして残念なことです。

りっぱなまちには、自分の町のことをよく知っている子どもがいます。
まちのきまりをまもり、まちをきれいにしようとする子どもがいます。
この本を読むみなさんは、先生やお友だちとじっさいにしらべたりおはなしあいをして、
札幌のことをよく知って、りっぱなまちの子どもになってください。


どうやら、この本は、札幌の小学校3年生用に製作された副読本のようです。
1958年に9才だった人たちなので、現在は68歳の方々が使用された教材ということになります。
そして、来年は、この本が発行されてから60周年になるんですね。

戦後の昭和30年代、札幌の街もどんどん発展していった時代だと思います。
副読本の内容も次々と差し替えなければ、リアルな街の説明が難しかったのではないでしょうか。
副読本を年代順に追いかけていくと、札幌の移り変わりがきっと分かるはずです。

当時の札幌の人口は50万人。
本当の札幌の発展は、この次の時代にやってくるのだということを、9才の少年少女たちは、自分たちの目で確認するとともに、その時代の発展を、自分たちの手で支えていくことになります。
by kels | 2017-12-24 06:20 | 旧・札幌エピソード | Comments(2)

松尾ジンギスカン「松尾のおいしい食べ方」マニュアル

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御歳暮に松尾ジンギスカンが届いたので、早速夕食に食べました。
北海道で暮らしているのに、御歳暮にジンギスカン!
どれだけ羊肉好きなんだよって感じです(笑)

お肉と一緒に「松尾のおいしい食べ方」マニュアルが同梱されていました。
意外とジンギスカンには、いろいろな流儀があるんですよね。
それぞれの流儀に従うのが、美味しく頂くコツです。

松尾のおいしい食べ方。

鍋のまわりに野菜をしきつめる。
どばっとお肉を豪快に焼く。
以上(笑)

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松尾ジンギスカンは、鍋の中央に肉を乗せて焼くのが流儀です。
肉を漬けこんでいたタレは、野菜にかけ回します。
我が家では、シンプルに1種類の野菜を乗せるのが定番で、今夜はモヤシでした。

毎週末でも食べたいジンギスカン。
ところで、ジンギスカン鍋は、北海道の家庭では、どこでも常備されているものなのでしょうか?
ちなみに、松尾マニュアルには、ホットプレートでの調理方法も紹介されていましたよ。


by kels | 2017-12-09 20:00 | 旧・札幌エピソード | Comments(4)

森田たまの随筆集「ゆき」の装丁デザインとなった中谷宇吉郎の描いた雪の結晶

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昭和31年12月25日に発行された森田たまの随筆集「ゆき」。
装丁の雪文様が非常に美しい本だ。
この雪の結晶のデザインについて、筆者はあとがきで次のように書いている。

雪は天から送られた手紙である。
世界的な雪の権威者、中谷宇吉郎博士は、雪の結晶の画の上に、必ずそういう賛をなさいました。
つづいて、
 一片の雪に千古の秘密がある。
と記されています。
十数年前、博士から雪の結晶の画をいただいた私は、それを古代紫地の帯に染めました。
この本の装丁に使ったのが、その帯の写しです。

「ゆき」森田たま(1956年)


本書では、秋から冬にかけて読みたい随筆45編が収録されている。
そして、この作品の中でも筆者は、故郷である北海道を偲ぶ文章をしたためている。

例えば、表題作「ゆき」の中には、次のような記述がある。

ふるさとの十二月は、いままでちらちらと降っては消え、降っては消えしていた雪が、本当に腰を据えて降り出し、根雪といって、あくる年の3月まで全世界を雪に埋める季節の始まりです。
北海道の雪は、内地の雪のような脆さも儚さも感じられぬほど、強い力を持って、夜も昼も休みなく振り続けるのですが、その冬の間には、一点の雲もなく、カラリと晴れあがったあを空の日が幾日かあって、ただそのあを空を仰ぐだけでも、生きていることが楽しいと思わせてくれます。
そして、そのあを空はまた、やがて必ず、ゆきの溶ける日のくることを、約束してくれるのです。

「ゆき」森田たま(1956年)


中谷宇吉郎の描いた雪を装丁として用いた筆者の北海道に対する思いが、一つ一つの文章の中に込められているような気がしてならない。



by kels | 2017-12-03 07:31 | 旧・札幌エピソード | Comments(0)

森田たまは、北海道が最も北海道らしかった時代の記憶を、生涯抱き続けていたのではないだろうか

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雪のちらつく十一月に、何をおいてもしなくてはならぬのが、漬けものでした。
それが半年の間の、いちばん大切なおかずなので、どこの家でも四斗樽を井戸端に並べて、せっせと漬けます。
しばらく陽に干して、少ししなしなと甘くなった大根を長さ二寸ほど、四つ割にして、みがき鰊と麹で漬けこむ、にしん漬け。
これは、冬の漬けものの王様です。

「冬支度」森田たま(1951年)


「冬支度」は、昭和31年に刊行された随筆集「ゆき」所収の作品である。
森田たまは、明治44年に上京して以降、北海道で生活することはなかった。
したがって、にしん漬けの記憶も、少女時代の幼い思い出ということになる。

その昔、北海道の冬を越す開拓者たちにとって、冬の野菜不足は非常に大きな課題だった。
漬けものは、北海道の冬に野菜を補給するための、重要な保存食だったという。
寒冷な北海道の気候が、特に、この地域独特の漬けもの文化を発展させたということもあるだろう。

流通や冷凍技術が発達すると、北海道内においても、冬の商店には野菜が並ぶようになった。
漬けものだけで、冬の野菜不足に対応する時代は終わったのである。
高度経済成長の時代を経る中で、家庭で漬けものを作る習慣は、どうやら廃れてしまったらしい。

一方で、生活様式の発展や温暖化の進行に伴って、昔と同じような漬けものを作ることは難しくなったとも聞く。

北海道の漬けものは、真冬の厳しい環境の中で生まれてきたものだ。
しかし、寒冷地住宅の開発は進み、北海道の冬を快適に過ごすことが可能になった。
暮らしやすい住宅環境は、北海道らしい漬けものを作るには、少し場違いになってしまったらしい。

そもそも、北海道の冬は、昔のようには寒くはないともいう。
森田たまが上京した1911年の冬を例に取ると、この年の1月、氷点下10度以下となった日が23日ある。
2016年1月では、氷点下10度以下となったのは1回だけだから、冬の寒さは全然違うと言ってよい。

森田たまが「ゆき」を刊行した1951年でも、氷点下10度以下の日は17回ある。
明治時代とは時代が変わりつつあるとは言え、北海道の冬は、まだまだ北海道らしさを十分に保っていた。
おそらく彼女は、北海道が最も北海道らしかった時代の記憶を、生涯抱き続けていたのではないだろうか。

by kels | 2017-11-05 17:46 | 旧・札幌エピソード | Comments(2)

冬が近くなると、船山馨の「北国物語」を読みたくなる

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自動車は停車場通りをまっすぐに中島公園へぬける広い電車通りを走っていた。
道路の両側に巨大なアカシアの街路樹が鬱蒼として続き、その緑の繁みの間から、五番街デパートの赤煉瓦の建物がちらちら覗いたり、むかし北海道随一と言われた山形屋旅館の古い木造建築が見えたりするのは、もとのままの風景であったが、すぐその山形屋の一丁も先には、鉄筋コンクリートの八階建てのグランドホテルができ、そのまた少し先の十字街には、三越デパートの支店が瀟洒な六階建てで聳えていたりするのは、さすがにここも十四年の歳月がうかがわれるのであった。

「北国物語」船山馨(1941年)


冬が近くなると、船山馨の「北国物語」を読みたくなる。
物語冒頭に登場する札幌駅前通りの描写を見るだけで、この作品が札幌の街を舞台としていることが、よく分かる。
船山馨は、札幌西高校出身の郷土の作家だ。

札幌三越の開店は昭和7年、札幌グランドホテルの開館が昭和9年である。
伝統ある五番館百貨店や山形屋旅館の中に、新しい文化が生まれつつある街の姿が、そこには描かれている。
それは、10年以上も札幌の街を離れた者にとって、まさに激変とも言うべき街の変わり様だったに違いない。

船山馨が「北国物語」を発表してから、70年以上の時間が過ぎた。
伝統の象徴であった山形屋旅館も五番館デパートも既にない。
若い人たちには、その名前さえも歴史の副教材の中の言葉に過ぎないだろう。

停車場通りという言葉も、そこに並んでいたという巨大なアカシア並木も、今はもうない。
駅前通りと名前を変えた札幌のメインストリートは、現在もその姿を変容させつつある。
変わりながら成長していくことが、街の宿命なのだと言わんばかりに。


by kels | 2017-11-05 07:30 | 旧・札幌エピソード | Comments(0)

戦後間もない時代の新聞を読むと、毎日のように住宅問題が取り上げられている

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建設すすむ市営住宅 板壁ながら引揚者には龍宮

解体材をめぐり紛糾に紛糾をつづけた授産博覧会資材は、ついに札幌市の手に帰したが、市ではこれで市営住宅八棟七十戸を総工費二百十万円で建設することとなり。
いま◆◆を押し分けて北二十四西五の市有地に来月完成を目ざして建築を進めている。
この市営住宅はアパート式で壁もない板張りの超耐乏住居ではあるが、家のない引揚者たちにはこれでも龍宮のような嬉しい存在。
市ではさきごろ行った住宅困窮調査に基ずき家のない人々に貸付けることになっている。

「北海道新聞昭和23年1月11日付け」(1948年)

戦後間もない時代の新聞を読むと、毎日のように住宅問題が取り上げられている。

増える人間に対して物理的に住宅が足りないという状況で、しかもその数は中途半端なものではなかった。
昭和21年だけで、引揚者数1万5千人(5600世帯)、戦災者数5500人(2000世帯)の受入れである。
東京のような大規模な空襲被害を受けたわけではない街としても、極端な住宅不足は明らかだった。

当初は、日本政府が収容施設の確保を図り、昭和23年以降は、札幌市としても、新たな国庫補助制度を活用して庶民住宅の建設を開始した。
昭和23年に市が募集した八十戸の住宅には、1500件近い申し込みがあったという。
市営住宅への入居は、まさしく夢のような暮らしであった。



by kels | 2017-10-15 18:15 | 旧・札幌エピソード | Comments(3)

北24条周辺が本格的に発展したのは、昭和20年代後半からだ

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「北の都心」とまでいわれる北24条周辺が本格的に発展したのは、昭和20(1945)年代後半から。
それまでは、一面にツクシやスギナが広がり、羊や牛が見られたという。
この北24条に「幌北引揚者住宅」が建ったのは昭和23(1948)年ころから25(1950)年にかけてで、入居者のほとんどが樺太など外地からの引き揚げ者だった。
北25西2に1戸13.5坪の建設省規格の建て売り住宅が、北25西3と北26西3に市営の木造平屋住宅40戸が相継いで建築された。

しかし、粘土質の軟弱な地盤で井戸を60センチも掘り抜くと赤い水があふれてくるなどの悪条件に苦労は尽きなかった。
建設省規格住宅を建て、昭和23(1948)年から約20年間、北26西3に住んでいた本間正二さん(64)は「北18条電停までは道路らしい道路もなく、夏でも泥だらけの道をゴム長靴で歩いたものです。春でしたかねえ。棟上げの終わった市営住宅の屋根が突風で道路1本越えた向こう側まで吹っ飛んだこともありましたよ」と当時を回想する。
この地区は、道路が悪いことや札幌市の最北部に位置していたため、まだ行政の手が届かず早くから住民の連帯意識が強く、市内で戦後初の町内会が発足したところでもある。

昭和27(1952)年9月の市電鉄北線の延長は、人の流れと街並みを変えた。
北24条電停付近は利用者が集中し、西5丁目通りには商店や市場が立ち並び始めた。
とくに昭和46(1971)年地下鉄南北線開通以来、飲食店が急増した。

「広報さっぽろ北区版昭和52年5月号」(1977年)


現在も残る幌北団地は、1棟のみとなった。
建て替えられたとは言え、戦後の歴史を物語る建物のひとつには違いない。
それにしても、人口減少が深刻化する現代では、戦後の人口増加問題はちょっと想像しにくいものがある。

昭和20年代の札幌市の人口急増は、社会的な背景が大きかった。
終戦間際では、本州での空襲激化を避けて疎開する戦災者が、終戦直後は、樺太からの引揚者や復員兵の受入れが、その大きな要因となっているらしい。
加えて、戦後のベビーブームで、人口の自然増も同時に進んだ。

それまで「人が住めない」と言われていた地域も、こうした事情を背景として次々と宅地化されていった。


by kels | 2017-10-14 22:58 | 旧・札幌エピソード | Comments(2)

幌北地区では市営団地の解体が進んでいる

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引き揚げ者多く住んだ「樺太団地」姿消す 札幌 年内に1棟に

戦後、サハリン(樺太)から引き揚げてきた人が多く住み、かつて「樺太団地」とも呼ばれた札幌市北区北24条周辺の市営住宅が、老朽化による取り壊しで姿を消しつつある。
かつて23棟あった建物は現在3棟まで減り、年内には1棟のみとなる見通し。


この地区の発展は、戦後間もない1948年ごろから建設された引き揚げ者住宅が原点だ。
辺りは舗装路もない湿地で、住民たちはぬかるむ道を夏でもゴム長靴で歩いたという。

引き揚げ者住宅は61年から順次建て替えられ、引き揚げ者以外も住むことができる市営住宅「幌北団地」となったが、継続して住む人も多く「樺太団地」と呼ぶ人もいた。

「北海道新聞」2017年8月5日付け


久しぶりに北24条界隈を歩いた。
夏に読んだ新聞記事のことが気になっていたからだ。
団地の解体作業は順調に進んでいるらしい。

今となっては、この街が戦後に生まれた新しい街だとは、誰も思わないだろう。
北大前から続く大通りが中心を走り、地下鉄さえ通っている。
70年前には飛行場だった土地は、見事な住宅街として生まれ変わっている。

幌北団地は、この街が戦後に誕生した街であることを物語る生き証人のような建物だったような気がする。
急激な人口増加に住宅供給が追い付かなかった時代。
市内の至る地域が宅地化されて、団地やらアパートやらが次々と建てられていった。

将来発展する大札幌の住宅地区を建設するため、市ではこのほど旧札幌飛行場跡地約五万八千坪を購入。
近く融雪を待って土地整備に乗り出すことになった。
市ではかねてから北二十四-二十七、西五-十一、旧札幌飛行場跡地五八、六二十坪の国有地払い下げについて財務局と交渉中であったが、このほど一千万円で購入することに決定。
団地を発展する市の一部として分譲住宅地とする計画を立てており、さしあたり本年度事業として二千万円の予算で歩道、車道、排水管の敷設など土地整備を行い、二十七年度には電車路線を敷設、車庫を建設し、小公園、防風林など緑地帯をつくり、理想的な住宅地として市民に分譲するほか、道立高校、消防学校、聾学校用地として道に分譲することも予定している。

「北海道新聞」1951年4月5日付け


こうして、昭和26年、市営住宅を中心とする戦後の街づくりが始まった。




by kels | 2017-10-14 22:13 | 旧・札幌エピソード | Comments(0)

今、渡辺つゆについて、詳しく知る術は何もない

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おつゆさんの命日にふさわしい雨だ。
あなたは春を知らずに過ぎた、秋の寂しい女だった。

「つゆ女伝」吉屋信子(1963年)

昔、渡辺水巴という俳人があった。
「紫陽花や白よりいでし浅みどり」という有名句がある。
大正から昭和初期を代表する人であった。

この俳人には、つゆという妹がいた。
生涯独身で、兄・水巴の世話をし続けたという。
己の女性としての幸せよりも、兄への献身に生きがいを見出していたというのか。

今、この渡辺つゆについて、詳しく知る術は何もない。
ただ、彼女の残したいくつかの俳句を読むことができるくらいだ。
それが僕には、何だか寂しいような気がしている。

圧し鮨の笹の青さや春の雪 渡辺つゆ女

つゆは、太平洋戦争が始まる直前の10月10日、兄より先に帰らぬ人となった。
58歳だった。
つゆの好物は、笹巻鮨だったという。

by kels | 2017-08-27 07:02 | 旧・札幌エピソード | Comments(0)

ぶらり札幌ライフ


by kels