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014 おいらん淵の伝説

札幌を代表する豊平川が札幌の街に流れ込む少し手前、ちょうど南区の藻南公園の辺りに「おいらん(花魁)淵」と呼ばれる大きな淵がある。
札幌の昔話というと、必ず登場するのが、この「おいらん渕」の話である。
札幌は明治2年に誕生した新しい都市だったから、なかなか昔話らしい昔話を生み出す土壌にはなかった。
昔話といえば、大抵は開拓民にまつわるものであり、民話と呼ぶべきものではない。
『さっぽろ、むかしあったとさ』(坪谷京子)の中に登場する話の多くはそうした類のもので、この「おいらん渕」の話も明治期の札幌を舞台とした話のひとつである。

ところで、一般に知られている札幌の「おいらん渕」伝説にはいくつかの型があるようである。
たとえば、東京の吉原から連れて来られた花魁が、現実と理想とのギャップに絶望してこの淵へ身投げしたという話、我が身を憂う遊女達がここを自殺の名所としたという話、薄野で働く花魁が身の上に悲嘆してこの淵へ身投げしたという話など。
さらには、ここで身投げがあったというのは誤りで、ここを「おいらん渕」と呼ぶのは、かつて上流から船で木材を運んでいた商売人たちが、ちょうどこの辺りになると、決まって「花魁」の話をすることから、いつの間にか「おいらん渕」と呼ばれるようになったのだという話まである。

ただ、話の内容を考えると、ここで女性が身を投げたという史実の上に、いくつかの伝承が派生していったと考えることができそうである。
すすきの成田山の住職が書いた『すすきの今昔』に出てくる話は興味深い。
ここでは、横山平作という骨董商の回想という形で、「おいらん渕」の由来が紹介されている。

明治時代のこと、南2条西3丁目に、ある洋物の呉服店があった。
骨董商の横山は、かつてこの「若松」に住み込みで働いていた関係で、この一連の話に詳しいのだという。
先代の若月為右衛門が亡くなって為吉の代になってからのことである。
洋物布地や既製服などを仕入れるために上京していた為吉は、吉原遊びを覚えて、とうとう「花魁」を身請けして、札幌へ連れてきてしまった。
横山は毎朝、この新妻を見ていたが、中肉中背のあか抜けた美人だったらしい。
ところが、彼女の元には密かに男性からの手紙が届いていて、札幌で暮らして3ヶ月が経った頃、東京へ帰ると言いだした。
激昂した為吉は、座敷牢を作って彼女を監禁し、毎日のように陵辱したという。
彼女の泣き叫ぶ声は、横山の耳にまで届いていたというから驚きである。
ある夜、彼女はとうとう牢を抜け出すことに成功、彼女の高下駄と蛇の目傘がなくなっていた。
横山を始めとした店の若者達が市内を探し回ったが、結局見つけることはできなかった。
八垂別の農家が、豊平川上流の淵で女性の溺死体を発見したのは、それから2,3日後のことである。
高下駄と蛇の目傘も見つかり、死体の身元は確認された。
これが明治28年の秋のことで、この事件の後、人々はこの場所を「おいらん渕」と呼ぶようになったのだという。
その後、為吉は洋物店を廃業して土地の売買で成功し、戦前には南一条から三条にかけての大地主となった。
『すすきの今昔』が刊行された昭和51年当時、南6条西4丁目に「若松」という料亭があり、若月為吉は戦前までここで暮らしていたのだという。

この話の面白いところは、その他の伝説と比べると、話の舞台や登場人物などが具体的で、史実としての形を整えているところである。
「おいらん渕」の伝説は、おそらくこうした史実を下敷きとして派生していったものであり、さらには地名や伝説の与えるイメージや、都会では珍しい川渕の風景などから「怪談スポット」のような都市伝説にまで発展していったものだろう。

伝説が地名になっているという点で、「おいらん渕」は札幌の貴重な郷土資料である。
さっぽろふるさと・文化百選に選定された理由も、その辺りにあるのではないだろうか。


by kels | 2011-05-01 21:01 | 歴史・民俗
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