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009 サムライ部落



武士部落と書いて、「サムライ部落(さむらい部落)」などと呼ばせていたようである。
「サムライ部落」は昭和40年代まで現実に存在していた下層社会であるため、人々の記憶の中にはまだ残っているはずであるが、これをきちんと記録した文献は、やはりほとんど残されていない。

サムライ部落とは、東橋~豊平橋の間の河畔に自然発生的に誕生した集落であり、行き場のない人々が最後に選択する空間であったと考えられる。
その発生は定かではないが、豊平細民街に細民が膨れあがった結果、あぶれた細民が川原に流れたのが最初と見る説が有力である。

もっとも、ここまで記述していないが、東橋に近い苗穂地区も、明治中期から細民街を形成しており、ここから溢れた人々が東橋近辺の川原に定住を始めたとも考えられる。
また、もともと「すすきの」にあった遊郭が菊水に移されたことによって、遊郭の残飯を目的とした浮浪者たちが豊平川を超えており、こうした遊郭に依存する貧民が菊水あたりから川原に移ったと考えることも可能である。
現実的には、豊平細民街、苗穂細民街、白石遊郭などといった複数の要素から発生したのが「サムライ部落」であると考えるべきなのかもしれない。


※昭和11年のサムライ部落(『新聞と写真に見る 北海道昭和史』収録)

昭和9年の「北海タイムス」には、『サムライ部落を訪ねて』という探訪記事が掲載されており、それによると、「サムライ部落」は昭和4年の9月に東橋近くに誕生したもので、当初は30名ほどの集団だったという。
「昭和4年発生」と時期が明確に記述されているのは、そもそも「サムライ部落」は永続的な集落ではなく、形成されては離散するという歴史を繰り返した集落だからであり、それは常に水害の危険と隣り合わせの川原集落にとっては宿命的なものであった。

水害があれば、粗末な小屋は流失し、集落はたちまち消失したが、人々は再び集まり、新しいサムライ部落を形成した。
戦後は、引揚者や戦災者などがここに加わり、ピークには川の両岸に集落が発生したという。
進駐軍の指導により、北海道と札幌市は河原居住者の排除に取りかかるが、移転は簡単には進まなかった。
東橋近辺の河原居住者達の移転が行われたのが昭和24年のことだったが、すぐに豊平橋~幌平橋にかけて新たな河原居住者が発生し、その後もサムライ部落の人々の移転は、常に札幌市にとっての課題となっていた。
札幌市が本格的にサムライ部落の解消に乗り出すのは、冬季札幌五輪の開催が決まったときで、昭和44年を最後にサムライ部落は姿を消した。
河原居住者達は、市内各地に建設された厚生住宅や改良住宅に移転、あるいは保護施設などに収容された。

札幌市白石区老人クラブ連合会による『白石歴史ものがたり』には、次のような記述がある。

白石地区には更正住宅(通称サムライ部落)というのがあった。
今では住宅も密集して昔の面影はなく、戦前から住んで居られた人だけが知っているものと思う。
それは豊平橋の上流から東橋の下流にかけての一帯で、河原に小屋をかけ、おはらい屋(雑品集め等のこと)をしているのは良い方で無職者の方が多かった。
昭和20年8月、終戦となり、札幌にも米軍が進駐して来て、直に札幌の状態を見聞し、当時の部落は見苦しいから取り払えとの命令が出た。
それでも札幌市もようやく腰をあげ、苗穂と琴似と白石の3ヶ所に、更正住宅なるものを建て、昭和31年12月、サムライ部落の移転となり、白石に、後にいうスラム街が出来た。


また、札幌市長を務めた板垣武四の回想録『思い出すまま』の中にも、「サムライ部落」の移転問題は登場する。

私が第二助役となった31年には、豊平橋上手から東橋下手にかけて合計149世帯、385人が掘っ建て小屋に住みつき、周辺住民を中心に、「都市の美観上、捨て置けぬ」との声が上がり、市議会でも天野房次郎さん(帝国座社長)が「人道的に見ても問題だ」として、しばしば本会議で質問されていました。
指摘されるまでもなく市では25,6年度頃から特別に更正住宅建設費を計上して解決に努力していたのですが、いざ移転となると受け入れ側の住民は猛反対、その解決はいつも暗礁に乗り上げていました。

さらに、サムライ部落の内部に踏み込んだルポタージュとして、とくざわりゅうたん『ニッポン裏街道紀行』がある。
とくざわりゅうたんは日本各地の貧困地域を歩いて周り、札幌ではこの「サムライ部落」に現れている。

札幌市内では、豊平川岸に広がるサムライ部落を訪ねた。
250軒ばかりの掘建て小屋が並んでおり、小さな寺まである。
(中略)
橋本さんの説明によれば、生活保護を受けているものが103世帯、ニコヨン家業をしているものが120名だという。
それでも3級地だから325円になるといっていた。
路地裏には、どこで仕入れたのか、古着を車に乗せて売る人たちがいた。
商売人はどこにでもいるのだ。
主婦たちがわっと押しかけてきて、一層ごった返してくる。


現在、豊平河畔はきれいに整備されており、かつてそこに粗末な集落があったことを偲ぶものは何もない。
だが、札幌が持っていた負の遺産として、サムライ部落は決して我々の記憶から忘れられてはならないのだ。

なお、上の写真は『ニッポン裏街道紀行』に収録されたもので、昭和30年代のサムライ部落を知ることができる貴重な資料だ。

※北海道で「部落」という言葉は小さな集落を意味する言葉として、多くの場面で用いられているものである。
by kels | 2011-05-01 07:02 | 歴史・民俗
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