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008 豊平細民街



遠友夜学校が慈愛の精神に満ちた美しい物語として歴史に名を留めているのに対して、豊平細民街の歴史は、既に闇に葬り去られようとしている。
しかし、札幌の下層社会史にとって、もっとも重要な存在であるのは、実はこの豊平細民街であるのかもしれない。

上の写真は、『さっぽろ文庫・別冊 札幌歴史写真集(大正編)』に収録された大正10年頃の「豊平町細民部落と細民統計調査員」であり、このときの調査は『札幌区細民調査統計表』(大正11年)としてまとめられている。

豊平細民部落は、明治28年日清戦争役の不景気に連れ、落伍者三々五々相集り、遂に集団を為す至れり。
当時同地一帯は札幌郡豊平村の一小字に過ぎず、本区の塵芥捨場を控えて、僅かに掘建小屋に起臥したりしも、漸次其数を増加すると共に、安宿業を営むものも出で、是等失業者等の便を図るに至り、更に大正78年欧州戦乱中、諸屑物の価格著しく騰貴したる。
当時は之を営業とする者、約100戸、人員300余名を算せり。


豊平地区に細民街が形成されるようになったのは、明治中期以降と考えられ、そこに行政が関与するようになったのは、大正デモクラシーにより人権保護の意識がようやく高まり始めた大正時代になってからのことであった。
明治末期には、豊平細民街は大規模な定着を見せ、明治44年の新聞では、警察署長が細民街を視察した際のコメントが掲載されていて、この時の視察は「南4条東4丁目(遠友夜学校があった辺り)」と、「豊平町の貧民窟」を対象に行われている。

この時期から、新聞紙上で細民街がテーマとして取り上げられるようになり、札幌の下層社会は新聞による記録を残すようになる。
当時は、横山源之助の『日本之下層社会』が発表されるなど、社会科学分野のレポートが脚光を浴びた時代でもあった。
もっとも、地元の新聞に残る貧民をテーマとした記事には、社会科学的な分析が充分にされているものはほとんどないような状況で、それが当時の札幌における下層社会に対する視点を物語っているようにも思える。
この時期の新聞記事については、別に紹介したい。

『新札幌市史機関誌 札幌の歴史 第38号』収録の『戦前の貧困地域と民間社会事業』(平中忠信)では、大正期における豊平細民街の状況が詳細に記載されている。
それによると、豊平地区の細民街は豊平町六番地、四番地などであり、大正11年、岩井鉄之助はこうした貧困地区の一画である豊平4条4丁目に低家賃住宅を建てたという。
この低家賃住宅は、その後「愛隣館」という公会堂となり、「愛隣館」はさらに昭和2年には無料宿泊所となった。
「愛隣館」は、敗戦後に保育所として再出発し、現在も地域に貢献する活動を続けている。
岩井鉄之助のこうした活動は、札幌における救済活動の黎明期のものとして、歴史に記録されるべく偉大な活動であったといえるだろう。

また、細民街の保育所といえば、大石スクによる「札幌保育園」があった。
札幌保育園は、大正12年になって豊平4番地に移転し、細民街における貧児保育に大きく貢献した。
その詳細については、『新札幌市史機関誌 札幌の歴史 第28号』に収録された『札幌の保育所』(大石徹)に詳しいが、この中で「豊平細民街」についての記述がある。

札幌市内には細民が各地に散在していたようだが、豊平にはこれがひとつのまちを形成しており、場所は豊平4番地・6番地・10番地一帯の地域であった。
「6番地」がほぼ中央に位置することから、この地域一帯の代名詞として使われた。
賀川豊彦が来札時、この地域を日本一の貧民窟といったとかで、ここが新聞に紹介されるたびに、枕詞のように賀川豊彦のこの言葉が引用されている。
細民が蝟集していた地域は現在の国道36号線を都心から来ると右側の裏の地帯(現豊平5条1丁目~2丁目)を指しているが、そこに小路を挟んで棟割長屋が隙間もないほどに建ち並んでおり、昼なお暗く、便所や下水が異臭を放つ不潔で薄気味の悪い地域であった。


なお、札幌保育園は数度の移転の後に豊平町80番地(現在の豊平6条3丁目)に移転し、現在も経営を続けている。

岩井鉄之助や大石スクらの活動に見るように、この時期の下層社会には慈善事業活動が発生を見せており、札幌の社会事業はこうした細民街を舞台として大きく発展していったことが分かる。
豊平細民街が、特に重要であるという考え方は、そこにこうした社会事業の系譜を見ることができるからだともいえよう。

『新聞と人名録にみる明治の札幌』に収録されている『郊外繁盛記』(昭和2年、北海タイムス)の「豊平と其の近郊」の回には、次のような記載がある。

馬糞の町、鍛冶屋の町、貧民長屋の町──豊平と聞いて先ず連想するのは之だ。
(中略)
大体其の頃の豊平市街は一本町であった。裏通りと云えば、豊平橋の袂から西に折れて行く水車通りへ行く方面に、汚ない小路が一本あったきりである。ひどい貧民長屋がたむろしていて、夏は臭くて通れなかった。それでも学校へ行くには近道であったので、急ぐ時はそこを通った。豊平の貧民窟というのは、あの辺をいうのだろうと漠然と考えていた。
(中略)
今なら其の貧民窟も何処にあるか一向に見当がつかない状態である。

この探訪記事では、豊平の細民街は既に解消されていて、現在ではとても暮らしやすい町になっていることを特に強調しているが、この豊平細民街では、同じ昭和2年にも保導委員による細民実態調査が実施されており、豊平の貧民窟が解消されていたとはとても言えないような状況であった。

翌昭和3年の北海タイムスでは、歳末救済を受ける豊平細民街の人びとの様子が、写真入りで報じられている。
(下の写真)



それでも、調査が開始された大正10年以降、貧民救済政策は徐々に進められ、札幌の下層社会の中心は細民街にさえ暮らすことのできない河原に居住する人々へと移っていった。
by kels | 2011-05-01 07:01 | 歴史・民俗 | Comments(0)
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