啄木が札幌滞在中に出会った女性として良く知られる人物に、この「スイートピーの女(きみ)」がある。
それは決して強烈な出会いというものでもなく、深い交際というほどのものでもなかった。 けれども、啄木は晩年までこの女性を記憶の片隅に残し、ある特別の感情を抱いていたのではないかと思われる節もある。 今回は、この「スイートピーの女」について紹介しよう。 啄木が札幌に到着したのは明治40年9月14日土曜日の午後1時過ぎのことである。 故郷渋民村を追われて、函館で仕事を見つけた啄木だったが、函館大火に見舞われて新しい安住の地を札幌に求めることとなった。 啄木の札幌での活動には、文芸仲間である向井永太郎の協力が大きかった。 災害の救済活動に函館を訪れた向井に対して啄木は札幌での職探しを依頼、首尾良く北門新報社の校正係の口が見つかり、啄木の札幌移住が決まった。 札幌駅に降り立った啄木を迎えたのは、向井永太郎と松岡政之助の二人だった。 乗客の大半は此処で降りた。 私も小型の鞄一つを下げて乗客庭(プラットホーム)に立つと、二歳になる女の児を抱いた、背の高い立見君(向井永太郎のこと)の姿が直ぐ目についた。も一人の友人も迎へに来て呉れた。 「君の家は近いね?」 「近い。どうして知ってるね?」 「子供を抱いて来てるじゃないか」 自伝的小説「札幌」の中で、啄木は札幌到着時の様子をこのように再現している。 故郷から呼び寄せたばかりの家族を函館に残して、啄木の札幌での宿は素人下宿屋の一部屋ということになった 九月に入り札幌に在る詞友夷希微向井永太郎君より飛電あり来りて北門新報社に入れ月十五金給せむと。乃ち其月十三日夕星黒き焼跡に名残を惜みて秋風一路北に向ひ翌十四日札幌に着き向井君の宿なる北七条西四丁目四、田中方に仮寓を定む。 これは、啄木が北門新報社に入社してすぐ紙上に掲載した「秋風記」の文章で、宿となるべき下宿屋を仮の宿と表現している。 当然、啄木としては、家族を呼び寄せて安住の地を構えたいという思いもあったことだろう。 続けて、小説「札幌」からの引用である。 立見君(向井永太郎のこと)の宿は北七条の西○丁目かにあった。 古ひ洋装擬ひの建物の、素人下宿を営んでいる林(田中家のこと)という寡婦の家に室借りをしていた。 (中略) 私もその家に下宿する事になった。 尤も明間は無かったから、停車場に迎へに来て呉れた一人の方の友人──目形君(松岡政之助のこと)──と同室することとしたのだ。 当時、札幌も5月に大火があったばかりで、住宅事情は相当に厳しいものであったらしく、啄木も向井永太郎が家族で暮らす下宿屋の一室で、松岡とさらにもう一人、学生との3人での生活ということになったのだった。 さて、話を「スイートピーの女」に進めなければならない。 啄木が札幌に荷物を解いたその夜の、有名な歌がある。 わが宿の姉と妹のいさかひに 初夜過ぎゆきし 札幌の雨 この歌こそ、啄木が「仮寓を定む」とした田中サトの下宿屋を舞台としたものであった。 「姉」は長女田中久子、「妹」は次女田中英子である。 久子はこの春に北星女学校を卒業したばかりの18歳、英子は13歳であった。 【下宿屋の姉と妹】 啄木の下宿する田中家は札幌市北7条西4丁目4番地にあった。 札幌停車場のすぐ裏に位置する辺りであり、啄木の新しい職場北門新報社にも近かったから、まず便利な場所にあったと思われる。 小説「札幌」の中で、啄木は下宿屋の家族との交流について描いている。 姉は真佐子(田中久子のこと)と言った。 その年の春、さる外国人の建てている女学校を卒業したとかで、体はまだ充分発育していない様に見えた。 妹とは肖ても肖つかぬ丸顔の、色の白い、何処と言って美しい点はないが、少し藪睨みの気味なのと片笑靨(かたえくぼ)のあるのとに人好きのする表情があった。 女学校出とは思はれぬ様な温雅(しとや)かな娘で絶え絶えな声を出して賛美歌を歌っている事などがあった。 学校では大分宗教的な教育を享けたらしい。 クララ・サラ・スミス女史によって設立された北星女学校は、キリスト教精神を重んじるミッション系の学校であったら、久子もその影響を大きく受けていたことだろう。 さらに、「札幌」の中には次のようなシーンがある。 それから飯を済まして便所に行って来ると、真佐子は例の場所に座って、(其処は私の室の前、玄関から続きの八畳間で、家中の人の始終通る室だが、真佐子は外に室がないので、其処の隅ッコに机や本箱を置いていた)編物に倦きたといふ態で、肩肘を机に突き、編物の針で小さな硝子の罎に挿した花を突ついていた。豌豆(えんどう)の花の少し大きい様な花であった。 「何です、その花?」と私は何気なく言った。 「スヰイトビインです」 よく聞えなかったので聞直すと、 「あの、遊蝶花とか言ふさうで御座います」 「さうですか。これですかスヰイトビインと言ふのは」 「お好きで被入(いらっしゃ)いますか?」 「さう! 可愛らしい花ですね」 見ると、耳の根を仄のり紅くしている。 つまり、啄木にとって田中久子を回想する場面で大きな要素となったのが、当時はまだ珍しかったスイートピーの花であった。 啄木が家族を呼んで田中家に落ち着く算段を整えた頃、妻の節子と長女の京子が下宿を来訪し、啄木の家族と久子との出会いについても、小説「札幌」では描かれている。 二人限になった時、妻は何かの序にこんな事を言った。 「真佐子さん(久子のこと)は少し藪睨みですね。穏しい方でせう」 やがて出社の時刻になった。 玄関を出ると、其処からは見えない生垣の内側に、私の子を抱いた真佐子が立っていた。 私を見ると、「あれ、父様ですよ、父様ですよ」と言って子供に教へる。 「重くありませんか、そんなに抱いていて?」 「否(いいえ)。嬢ちゃん、サァ、お土産を買って来て下さいって。マァ何とも仰しゃらない!」 と言ひながら、耐らないと言った態に頬擦りをする。 赤児を可愛がる処女には男の心を擽るような点がある。 私は真佐子に二三歩真佐子に近づいたが、気がつくと玄関にはまだ妻が立っていたので、そのまま外へ出て了った。 この自伝的小説「札幌」は、啄木が後年札幌を述懐した形で書かれているわけだが、札幌滞在中の啄木にとって、久子が爽やかな印象を持って記憶していたことが推測されるだろう。 啄木の札幌滞在は、しかし突然の小樽移転によってわずか2週間で幕を閉じた。 田中家で算段した計画はすべてご破算になってしまったわけだ。 急遽、小樽日報への転職を決意した啄木は9月27日に札幌を離れて、小樽へ移った。 啄木が下宿を出る際に、下宿屋の未亡人田中サトは、啄木に久子の就職口について依頼をしている。 啄木と久子との糸は、この時点でまだ繋がっているわけで、実際、啄木は小樽から向井永太郎に差し出した葉書に次のようにあった。 尚田中の久子様の事母堂に御約束の学校の方目下区内に一人もアキなし、何れ出札の上ゆるゆる御世話致すべしと御伝へ被下度候 さらに、小樽を追われて移住した釧路からの手紙にも、久子の就職についての件がある。 田中様の久子氏学校教員希望の件、小樽では小生自身の態度不明なりしと、且つ空席なかりしためその儘に致し置き候ひしが、若し今猶其希望ならば(而して釧路でもよければ)空席もある模様にて且つ小生は有力なるツテも作り候間、履歴書御送付方御勧誘被下度候、本月末か来月初めには小生の家族共も来る筈故拙宅に御同居、先方で異議なくば遠慮無用に候、給料もあまり悪くない様子に候。 つまり、釧路へ移った啄木は、久子の就職口を見つけたうえ、自宅に同居することもできますよと連絡をつけたのである。 もっとも、その時、既に久子は札幌近郊の村にある新琴似尋常高等小学校(現在の新琴似小学校)の教員になっていたから、啄木のこの話は実現しなかった。 もっとも、当時の久子の周囲の人たちの記憶に寄れば、久子自身が「釧路に行くことになるかもしれない」と話していたらしいから、久子自身にももしかすると多少の可能性があったのかもしれない。 以後、啄木は上京し、田中家は下宿を止めて朝鮮へ渡ってしまうことになるから、二人の繋がりは完全に途絶えてしまうこととなるのである。 ところで、後年啄木は「きれぎれに心に浮かんだ感じと回想」というエッセイの中で、次のような話を書いている。 同じやうな事がある。 矢張其友人と、或日、札幌の話をした時、話の中の女の名を不図忘れて了って、どうしても思出す事が出来なかった。 その女といふのは、私が一昨年の秋、二週間札幌にいて泊っていた家の娘であった。 スヰイトビイとかいふ花を机の上の瓶にさして、その前で小声に賛美歌を歌ひながら、針仕事をしている大人しい娘であった。 一週間か其余も経ってからである。 其友人と日が暮れてから、本郷の通りを散歩していると、色々の花を列べてある植木屋の露店の前に来て、突然、私はその女の名を思出した。 大切な落し物を拾ったよりも猶嬉しかった。 そして友人に話した。 友人は、「ああ、さうでしたか」と言った。 私は口を噤んで、「また贅沢な喜び方をした」と思った。 ここでも、久子はスイートピーの花とともに啄木の記憶の中から登場している。 スイートピーの持つ純潔なイメージと、初々しい久子の印象が極めて強い結びつきを持って、啄木の中で成長を続けていたのかもしれない。 そして、日々の生活の中で、久子に関する思い出を語る時、啄木は盛んに「スイートピーの女」という表現を使ったとも伝えられる。 啄木が明星派の歌人であったことを考えると、女性を花に例える表現方法は不思議ではなかったらしい。 最後に、啄木の残した不思議な女性リスト「忘れな草」について。 啄木は自身に縁のあった6つの街の名をあげて、それぞれの街に去来する女性の名をローマ字のリストとして残している。 その街の中にはもちろん札幌があり、そこには「サッポロ──ヒサ・タナカ」と、田中久子の名前だけがあった。 啄木よりも長く田中家を宿とした向井永太郎は「石川啄木の追憶」の中で、啄木と久子について、次のように書いている。 サッポロの田中家に俺と同居中、同家の長女に対する彼の興味は確かに、将来の進展を想像されるものがあったらしいことは、同宿の若人達(俺も無論若かったが、妻子携帯者であった)の後に噂話にも上った程であるが、その点バイロン的であったかもしれない。 深い関係にもならなかった下宿屋の18歳の娘のことを「スイートピーの女」と吹聴した啄木の真意を知ることは今ではできない。 ただ、啄木がサッポロでの滞在先で過ごした時間の多くを、下宿屋の久子という女性とスイトピーの花に印象づけて記憶していたことは、何か我々にほっとしたものを感じさせる。 「古ひ洋装擬ひの」下宿屋は田中家が去ったしばらく後、昭和7年に取り壊されて、北7条郵便局となった。 現在では近代的な大型ビル(クレストビル)が建ち、札幌駅北口周辺も数度の開発を経て、当時の面影を偲ぶことはできない。 ただ、ビルの入り口に、かつてそこに啄木が下宿をした家があったことを教えてくれる説明板と啄木の像があるだけである。
by kels
| 2011-05-01 06:53
| 文学
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