タグ:村上春樹 ( 72 ) タグの人気記事

村上春樹の「フリオ・イグレシアスのどこが良いのだ!」

b0103470_4543987.jpg

今週はちょっと疲れる出来事が続いていて、それで昨日は早々と仕事を切り上げて、午後9時前には眠ってしまった。
だから、午前3時に目が覚めてしまって、音楽を聴いたり、本を読んだりして、朝までの長い時間を過ごしている。
週末は朝風呂に入る習慣があるんだけれど、午前6時を過ぎないと、なんだか朝風呂に入っているという感じがしない。

ということで、気分転換にブログなどを書いてみる。
僕にとって、このブログは、最高の気分転換なのだ。
文章を書くことでストレス解消できるんだから、安上がりだよね。

今週は、村上春樹の『村上朝日堂』というエッセイ集を持ち歩いては、仕事に出かけていた。
『村上朝日堂』は、1980年代の前半に、日刊アルバイトニュースに連載されていたエッセイをまとめたもので、様々なテーマの雑文が収録されている。
話題がとにかくてんでバラバラなので、逆にそれが良い気分転換になる。

話題の中には、さすがに時代性を感じることも少なくないけれど、僕のように80年代カルチャーが好きな人には、それも隠れた楽しみになっている。
村上春樹もまだ若かったから、文章も瑞々しくて、一つ一つのフレーズにキレとハリがある。
個人的には、村上エッセイの中で一番好きな作品だ。

その中に、フリオ・イグレシアスに関する文章があって、これが非常におもしろい。
まさに、若さゆえのキレとハリが鮮やかな文章で、今だったらきっと書けないだろうなという素晴らしいものになっている。
タイトルは「フリオ・イグレシアスのどこが良いのだ!」

僕の個人的な感想を言えば、あのフリオ・イグレシアスという人間は実に不快である。
僕のこれまでの経験によると、あの手ののっぺりした顔だちの男にロクなのはいない。
財布を拾っても交番に届けないというタイプである。
ああいうのは五年くらい戸塚ヨット・スクールに放りこんでおけばいいと思うのだけど、きっと要領がいいから途中からコーチなんかになって他人をなぐる方に回るに違いない。
そういう男なのだ。

「村上朝日堂」村上春樹(1982年)

作者は2回の連載に渡って、フリオ・イグレシアスがいかに嫌いかということを、これでもかというくらいに書き連ねている。
村上春樹は小説作品の中でも取り上げるくらいフリオ・イグレシアスに思い入れが強いらしい。
『ダンス・ダンス・ダンス』に登場するユキの言葉を借りて言えば、「本当は好きなんじゃないの?」といったところだろう。


にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 札幌情報へ
にほんブログ村
↑↑↑↑↑
「にほんブログ村」に参加をしてみました。
1日1回のクリックをお願いいたします!
by kels | 2014-02-22 05:21 | 文学 | Comments(2)

都会というのは、ある意味で多くの部分が匿名化されやすいものなのだ

b0103470_7482338.jpg

中頓別町の人たちが怒ったという話を聞いた時、僕らは彼らの気持ちが分かるような気がした。
例の村上春樹の小説の話だ。
-たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう。

同じ北海道でも、これが札幌や函館や旭川のように大きな街がモチーフだったとしたら、地元の人たちはここまで敏感に反応しなかったかもしれない。
大きな街は、いつでも様々な批評に晒されているものだし、良い話も悪い話も飲み込んでしまうだけのキャパシティがある。
都会というのは、ある意味で多くの部分が匿名化されやすいものなのだ。

だけど、小さな街の場合は、そんなふうにはいかない。
小さな街は、いろいろな意味で批評の影響を大きく受けやすいし、批評に対する反応が目に見えるようにはっきりと現れてくる。
簡単には匿名化されないものが、小さな街というものなのだ。

きっと、村上春樹は、そのことをきちんと理解していなかったのだと思う。
彼は都会の人だから、そういう小さな街のことを、現実的にイメージすることができなかったのだろう。
そこに悪意のようなものは微塵もなかったとしても。

彼の小説には北海道の地名が時々登場するけれど、それを楽しみにしている地元の人たちは、意外と多いのではないだろうか。
札幌は、既にたくさん登場しているので、この先はもう難しいかもしれない。
だけど、今回の事件があったから、今後はなかなかローカルな地名を登場させにくいかもしれないなあ。


にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 札幌情報へ
にほんブログ村
↑↑↑↑↑
「にほんブログ村」に参加をしてみました。
1日1回のクリックをお願いいたします!
by kels | 2014-02-15 08:04 | 文学 | Comments(6)

懐かしい音楽は決して僕を裏切ったりしない

b0103470_21481676.jpg

もう随分昔のことだけれど、疲れた夜には「ダニーボーイ」ばかりを聴きながら過ごした夜があった。
僕はまだ若くて、人付き合いも今より苦手で、酒の接待をして帰った夜には、必ずといっていいくらい暗がりの中で「ダニーボーイ」を聴いた。
きっと、僕はあの曲で自分を慰めていたのだと思う。

僕が「ダニーボーイ」で自分を慰めるようになったのは、きっと、村上春樹の「世界と終りとハードボイルドワンダーランド」を読んでからのことだったように思う。
あの小説の中で、「ダニーボーイ」はとても瑞々しく、とても美しい音楽として描かれていた。
失われた人の心を取り戻すくらいに美しいメロディとして。

いい大人になって、くだらない社会的儀式にもどうにか慣れた。
「ダニーボーイ」を聴かずとも自分を慰める方法も見つけた。
何より些細なことでは傷ついたりしない大人の鈍感さも身に付けた。

だから、僕がこんな気持ちで「ダニーボーイ」を聴くのは、とても久しぶりのことのような気がする。

そして、今夜得た一つの教訓みたいなものがある。
懐かしい音楽は決して僕を裏切ったりしないと。
懐かしい友人や懐かしい思い出は、いつでも僕を裏切るけれど、懐かしい音楽はあの頃のままで、現在の僕を慰めてくれる。


にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 札幌情報へ
にほんブログ村
↑↑↑↑↑
「にほんブログ村」に参加をしてみました。
1日1回のクリックをお願いいたします!
by kels | 2013-12-04 21:59 | 音楽 | Comments(2)

世の中の28歳を過ぎた男性諸君、今日も頑張ろうじゃないか

b0103470_5132810.jpg

男が年齢のことでやたら感傷的になることは珍しくない。
その最も代表的で有名な文章は、村上春樹の小説にあるのではないかと、僕は考えている。
それは、こんな文章だ。

詩人は21で死ぬし、革命家とロックンローラーは24で死ぬ。
それさえ過ぎちまえば、当分はなんとかうまくやっていけるだろう、というのが我々の大方の予測だった。
伝説の不吉なカーブも通り過ぎたし、照明の暗いじめじめしたトンネルもくぐり抜けた。
あとはまっすぐな6車線道路を(さして気は進まぬにしても)目的地に向けてひた走ればいいわけだ。

我々は髪を切り、毎朝髭を剃った。
我々はもう詩人でもロックンローラーでもないのだ。
酔払って電話ボックスの中で寝たり、地下鉄の車内でさくらんぼを一袋食べたり、朝の四時にドアーズのLPを大音量で聞いたりすることもやめた。

つきあいで生命保険にも入ったし、ホテルのバーで酒を飲むようにもなったし、歯医者の領収証をとっておいて医療控除も受けるようにもなった。
なにしろ、もう28だものな。

「ニューヨーク炭鉱の悲劇」村上春樹(1983年)

この「なにしろ、もう28だものな」という台詞が、男の感傷のすべてである。
そして、僕も28歳になったとき、この台詞をぼんやりと思い出しながら感じていたものだ。
「なにしろ、もう28だものな」と。

もっとも、一見気弱なこの言葉は、ある意味では、自分の成長を誇る言葉ともなり得る。
子供から脱却した自分を確認するための言葉。
それをあえて感傷的に装ってみせるのも、屈折したダンディズムというものなのではないだろうか。

28歳なんて若いじゃないかと、今の僕だったら、そう思う。
だけど、28歳の男性が「なにしろ、もう28だものな」とつぶやくその気持ちも、とてもよく理解できる。
なぜなら、ステップを昇ることで失ってきたものが少なくないことを、僕たちはみんなよく知っているからだ。

世の中の28歳を過ぎた男性諸君、今日も頑張ろうじゃないか(笑)





にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 札幌情報へ
にほんブログ村
↑↑↑↑↑
「にほんブログ村」に参加をしてみました。
1日1回のクリックをお願いいたします!
by kels | 2013-11-01 05:33 | 文学 | Comments(2)

夏の終わりというのは、クールな小説家であってもセンチメンタルな気持ちになるらしい

b0103470_2131334.jpg

夏の終わりというのは、クールな小説家であってもセンチメンタルな気持ちになるらしい。
というようなことを、僕は村上春樹の「風の歌を聴け」を読んだときに思った。
特に、それを感じたのは、やはり、この部分のフレーズだろう。

夏の香りを感じたのは久し振りだった。
潮の香り、遠い汽笛、女の子の肌の手ざわり、ヘヤー・リンスのレモンの匂い、夕暮れの風、淡い希望、そして夏の夢・・・
しかしそれはまるでずれてしまったトレーシング・ペーパーのように、何もかもが少しずつ、しかしとり返しのつかぬくらいに昔とは違っていた。

「風の歌を聴け」村上春樹(1979年)

この小説は、まさしく一夏の物語である。
東京の大学に通っている主人公が、夏休みを利用して故郷に戻ってきている。
彼は、夏の終わりとともに、故郷の街を去って東京へと戻らなければならない。

故郷の街を去るということ、仲間たちと別れなければならないということ、そして、夏が過ぎ去ってしまうということ。
夏の終わりは、彼の暮らしの中で、様々なものに区切りを付けて、彼を次の展開へと進めようとする。
物語は、そんな夏の終わりと一緒にフェードアウトするように消えていこうとしている。

8月26日、という店のカレンダーの下にはこんな格言が書かれていた。
「惜しまずに与えるものは、常に与えられるものである」

僕は夜行バスの切符を買い、待合所のベンチに座ってずっと街の灯を眺めていた。
夜が更けるにつれて灯は消え始め、最後には街灯とネオンの灯だけが残った。
遠い汽笛が微かな海風を運んでくる。

「風の歌を聴け」村上春樹(1979年)

夏が特別な季節であるということは、世代や性別を問わずに変わらない感性なのではないだろうか。
その夏が終わろうとしている季節、人は言いようのない喪失感や虚脱感を覚えるはずだ。
それは、取り戻すことのできない青春の時間に似ていることを、人は大人になったあとで気が付く。

夏の終わりには、クールな小説家だって、少年のようなノスタルジーを持つものなのだろう。
そういう意味で、僕はこの小説が今でも大好きだ。
いつまでも瑞々しい少年の心を失わない夏が、物語の中には溢れているから。

あらゆるものは通りすぎる。
誰にもそれを捉えることはできない。
僕たちはそんな風にして生きている。

「風の歌を聴け」村上春樹(1979年)







にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 札幌情報へ
にほんブログ村
↑↑↑↑↑
「にほんブログ村」に参加をしてみました。
1日1回のクリックをお願いいたします!
by kels | 2013-08-30 21:34 | 文学 | Comments(0)

「さらば愛しき女よ」の原題は「Farewell, My Lovely」

b0103470_712557.jpg

早朝、ももいろクローバーZの『サラバ、愛しき悲しみたちよ』を聴いたら、一日中このメロディが頭から離れなかった。
無意識のうちに、この曲が頭の中だけで延々と繰り返されている感じ。
夕方、「ブックオフ」で買い物をしているときにも、このメロディは続いていて、いい加減飽きてきたなあと思ったら、店内放送のBGMでリアルに流れている音楽だった。

ところで、この「さらば愛しき○○よ」みたいな定型文の大元は、きっと、レイモンド・チャンドラーの「さらば愛しき女(ひと)よ」だろう。
私立探偵フィリップ・マーロウが主人公のハードボイルド小説で、読み終わった後の切なさが印象的な物語だ。
小説を読んだことがなくても、このタイトルは知っているという人も多いに違いない。

この小説の原題は「Farewell, My Lovely」。
このセンチメンタルなタイトルを、ハードボイルド風に「さらば愛しき女よ」と訳したのは、翻訳家の清水俊二。
時代的背景もあるのかもしれないけれど、これはやっぱり素晴らしいタイトルだと思う。

もし、これが村上春樹が訳したように「さようなら、愛しい人」であったなら、現在のような定型文にはなっていなかっただろう。
(別に、村上春樹の訳が悪いという意味ではなくて)

戦後間もない時代の翻訳が、ももクロの名曲にまでつながっているかと思うと、妙に感慨深い(笑)


にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 札幌情報へ
にほんブログ村
↑↑↑↑↑
「にほんブログ村」に参加をしてみました。
1日1回のクリックをお願いいたします!
by kels | 2013-08-17 07:49 | 音楽 | Comments(2)

映画を観ながら、つくづく村上春樹の初期作品における「ギャツビー」の影響力を感じた

b0103470_5454830.jpg

「華麗なるギャツビー」の映画を観てきた。
映画そのものにはまったく期待していなかったけれど、ブルックスブラザーズが衣装を担当しているということで、映画の中に登場するスーツやらシャツやらを観たかったのだ。
などという予想に反して、映画そのものも面白かったので、とても満足。

ストーリーは、基本的には原作に忠実で、原作の持つ切なさをある程度感じることができた。
一部の演出に映画らしさを感じて辟易するものはあったにしても、突飛過ぎる羽目を外した展開はなかったと思う。
満足できない部分があったとしたら、演出やシナリオよりも配役の方だったかもしれない。

ところで、映画を観ながら、つくづく村上春樹の初期作品における「ギャツビー」の影響力を感じた。
アメリカの映画を観ているのに、村上春樹の小説のことを何度も何度も思い出していたのだ。
もちろん、それは決して悪い意味にではなく、僕にとっては優しいノスタルジーを感じる気持ちに似ていた。

センチメンタルで自己破滅型のスターであるギャツビーは、「ダンス・ダンス・ダンス」に登場する五反田君を思い出させる。
ギャツビーも五反田君も、ごく控え目な男性である物語の語り手に対して強い愛情を持ち、強い信頼感を寄せている。
二人の男が、大人の青春というものの切なさやはかなさを美しく描き出しているところも共通点かもしれない。

物語の語りであるニックとギャツビーとの関係は、「ノルウェイの森」におけるワタナベくんと永沢さんの関係性を連想させる。
傍観者に徹しようとするワタナベくんは、彼女がいるのに他の女の子たちともセックスをする永沢さんに巻きこまれ、彼の暮らしの表と裏に付き合わされることになる。
巻きこまれながらも、あくまで傍観者に徹しようとするその姿は、「ギャツビー」のニック・キャラウェイに相通ずるものがある。

「華麗なるギャツビー」の主人公は、やはり、語り手であるニック・キャラウェイだったのではないだろうか。
ジェイ・ギャツビーという一人の男性を描き出す過程の中で表現されているのは、ニックの強い感受性とプライド、そして鋭い観察眼である。
ニックの目を通して観察され、ニックの言葉を通して語られることにこそ、「ギャツビー」の価値はあったのだ。

ところで、ギャツビーがディジーに向かって次々とドレスシャツを放り投げていくシーンは、この映画の中でも重要なシーンの一つだったが、例の印象的な台詞がなかったのは、個人的にちょっと残念。
まあ、原作を読んでいなければ、格別ストーリーに影響する部分ではないので、仕方ないといえば仕方ないのだけれど。

あと、この物語は、一夏の出来事を描きだしたものなので、もう少し夏らしい季節感を演出してほしかった。
1920年代という時代を表現するには十分すぎるほどだったけれどね。


にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 札幌情報へ
にほんブログ村
↑↑↑↑↑
「にほんブログ村」に参加をしてみました。
1日1回のクリックをお願いいたします!
by kels | 2013-07-06 06:33 | 夏のこと | Comments(0)

「No Book No Life 」、本があってこその人生だ

b0103470_6402461.jpg

「No Music No Life」という言葉があるように、人生には欠かせないものというのが、人には何かしらある。
「酒」や「釣り」などは、その代表格みたいなものだ。
「酒を飲めないなんて、人生の楽しみを半分なくしているようなものだ」とか、「釣りをしないことは、人生の半分を死んでいるようなものである」といった格言は、酒や釣りに対する人間の愛情の深さを表現している。

もちろん、酒や釣りに限らず、その対象物は人それぞれによって違う。
ある人は、クラシック音楽やオペラ音楽をなくして生きることはできないかもしれないし、ある人にとっては、競馬やパチンコなどのギャンブルがなければ、人生ではないと言うかもしれない。

僕にも、そんな人生の楽しみがいくつかある。
その中でも、特に、これなくして人生ではないと言えるものは、やはり「読書」である。
雑誌であれ、文庫本であれ、何かしらの本がなければ、僕はきちんと生きていくことができないのではないだろうか。
まさしく、「No Book No Life」、本があってこその人生である。

若い頃は小説ばかり貪るように読んでいたけれど、最近は、エッセイやコラムなどを中心に読むことが多い。
雑誌には、短いコラムが付きものなので、特集記事よりもこうしたコラムの方が楽しみな場合もある。
もちろん、部屋には常に未読の本を何冊かストックしておかないと、何となく落ち着かない気持ちになる。

僕の場合、自分より年上の人の作品ばかりを好んで読む、という特徴がある。
知らない作家の場合、まずは著者の略歴を確認して、自分より年上の人であれば安心して読むことができるのだ。
人生の先輩から何かを得たいという気持ちが強いのかもしれない。

これは、別に若い人が嫌いだとか先入観だとかによるものではない。
自分自身の経験則で、年上の人たちの作品に、より面白いと感じることができるものが多かったのだ。
若い作家の作品を読まないこともないが、強い感銘を受けることは少ないような気がする。

そういう意味では、村上春樹の「ノルウェイの森」に登場する永沢さんの気持ちがよく理解できる。

彼は僕なんかはるかに及ばないくらいの読書家だったが、死後三十年を経ていない作家の本は原則として手にとろうとはしなかった。
そういう本しか俺は信用しない、と彼は言った。
「現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費したくないんだ。人生は短い」
(中略)
「他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥ずかしいことはしない。なあ知ってるか、ワタナベ? この寮で少しでもまともなのは俺とお前だけだぞ。あとはみんな紙屑みたいなもんだ」

僕はこの小説を20代前半の頃に読んだけれども、読書に対する一つの考え方のようなものを学んだ。
もちろん、死後30年を経ていない作家の本を読まないということではない。
他人と同じものばかり読んでいては、他人と同じ考え方になってしまうという理屈は、ある意味、正論だと思ったのだ。

永沢さんの言うとおり「人生は短い」。
つまらない本を読んだときくらいに悔しいことはないし、素晴らしい文章に出会えたときの喜びは、何物にも代えがたいものだ。
貴重な人生、もっともっと素晴らしい本に巡り合うことができたらいいな。





にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 札幌情報へ
にほんブログ村
↑↑↑↑↑
「にほんブログ村」に参加をしてみました。
1日1回のクリックをお願いいたします!
by kels | 2013-06-22 07:17 | 本・雑誌・古書 | Comments(0)

「グレート・ギャツビー」は、30才になるまでに、一度は読んでおきたい小説だ

b0103470_18564961.jpg

「グレート・ギャツビー」は、30才になるまでに、一度は読んでおきたい小説だ。
なぜなら、男が大人になるまでに、何が必要であって、何が必要ではないのか、そういったことを、この物語は実によく考えさせてくれるからだ。

ここで大切なことは、この物語は、お節介な説教めいた教訓を読者に押し付けるのではなく、あくまでも、「大切な何か」について、僕たちに考えさせてくれる、ということだ。
自ら思考し、悩み、壁にぶつかり、その壁を乗り越えようとする忍耐と自尊心のようなものがあってこそ、男はおとなになったと言えるのかもしれない。

物語の最後で、語り手であるニックは、別れた恋人とこんな会話を交わしている。

「そうだ、あんた覚えてる?」
彼女はつけ加えて言った。
「あたしたちがいつか車の運転のことで話したこと」
「さあ-正確には覚えてないな」
「あんた、へたな運転手は、もう一人へたな運転手と出会うまでしか安全でないって、言ったでしょ。あたしは、もう一人のへたな運転手に出会ったのよね。つまり、あんたの見当はずれの推測をしたのは、あたしの不注意でしたってこと。あたしはね、あんたのことを正直で率直な人だと思ったんだ。それがあんたのひそかな誇りなんだと思ったの」
「ぼくは三十ですよ」と、ぼくは言った。
「自分に嘘をついて、それを名誉と称するには、五つほど年をとりすぎましたよ」

「華麗なるギャツビー」スコット・フィッツジェラルド(1925年)野埼孝・訳

20代から30代へと年を取る、その過程の中で、男は青春の最後の輝きを感じる瞬間がある。
ニックもギャツビーも、その瞬間を、それぞれの価値観の中で通り過ぎ、あの切ない大人へと成長していったのだ。
彼らの生き様が、男たち一人一人の哲学によって、人生に多様なドラマを生み出していることは言うまでもない。

「ギャツビー」というと、華麗なる部分のみが着目を浴びがちだが、実際のギャツビーは決して華やかなだけの人生ではない。
むしろ、華やかなるざる人生の中で、華麗なる一面のみが物語のタイトルとして与えられたにすぎない。
ニックの冷静で、しかし、人間味に溢れた観察眼は、誰にも理解されることのなかったギャツビーの心の渇きさえをも丁寧に汲み取ろうと努力している。

ぜひ、「華麗なるギャツビー」は、30才になる前に読んでいただきたい。
そして、30才になってから、もう一度読み返してみてほしい。
男にとって30才という年齢がどのようなものなのか、それを、この小説から感じ取ることができるかもしれない。

ところで、村上春樹がこの小説をとても愛していることは有名な話で、近年になって、翻訳も果たしている。
「ノルウェイの森」を読んで感動した人間にとっては、村上春樹訳を読みたいところだが、僕は、古くもなじみ深い野崎孝の訳による一読をお勧めしたい。
切ないくらいの優しさが、そこからはにじみ出ていることだろう。





にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 札幌情報へ
にほんブログ村
↑↑↑↑↑
「にほんブログ村」に参加をしてみました。
1日1回のクリックをお願いいたします!
by kels | 2013-06-17 19:42 | 文学 | Comments(2)

そして、僕の夏はいつだって「風の歌を聴け」から始まった

b0103470_214125.jpg

夏について何かを語る時、僕は、まず、村上春樹の小説について語らなければならない。
それは、僕が夏について語るときの、一つの暗黙のルールみたいなものだ。
始まりは、ビーチでもなければビアガーデンでもない、村上春樹の小説だ。

一夏中かけて、僕と鼠はまるで何かに取り憑かれたように25メートル・プール一杯分ばかりのビールを飲み干し、「ジェイズ・バー」の床いっぱいに5センチの厚さにピーナツの殻をまきちらした。
そしてそれは、そうでもしなければ生き残れないくらい退屈な夏であった。

「風の歌を聴け」村上春樹(1979年)

これは、1970年の夏の一瞬を描いた小説である。
ドラマチックなストーリー展開もなければ、胸踊るラブロマンスもない。
あるのは、ただ、気だるい夏を生きる、控えめでささやかな青春群像だけだ。

開け放した窓からはほんのわずかに海が見える。
小さな波が上がったばかりの太陽をキラキラと反射させ、眼をこらすと何隻かのうす汚れた貨物船がうんざりしたように浮かんでいるのが見えた。
暑い一日になりそうだった。
周りの家並みはまだ静かに眠り、聴こえるものといえば時折の電車のレールのきしみと、微かなラジオ体操のメロディーといったところだ。

「風の歌を聴け」村上春樹(1979年)

写真にも言えることだけれど、当たり障りのない文章というのは、意外と貴重なものだ。
そして、当たり障りのない日常風景の中にこそ、僕たちの記憶に強く残るだろう、風景が時に隠されている。
それをきちんと発見し、記録し、誰かに伝えていくことこそが、写真家なり小説家の役割なのだろう。

小説の随所に登場する、この当たり障りない風景が、僕はとても好きだ。

ひどく暑い夜だった。
半熟卵ができるほどの暑さだ。
僕は「ジェイズ・バー」の重い扉をいつものように背中で押し開けてから、エア・コンのひんやりとした空気を吸いこんだ。
店の中には煙草とウイスキーとフライド・ポテトと脇の下と下水の匂いが、バウムクーヘンのようにきちんと重なりあって淀んでいる。

「風の歌を聴け」村上春樹(1979年)

小説はどこまでも真夏のままで進行していく。
なにしろ、この小説は、8月8日に始まり、18日後の8月26日に終わる。
真夏の小説なのだ。

けれども、今日、僕は、この小説の終わりまでを語ろうとは思わない。
2013年の夏は、これから始まろうとしているところだし、古い小説については、いつだって語ることができる。
僕が語るべき夏の話は、まだまだたくさんあるのだ。

そういうわけで、僕にとっての2013年の夏が、今、始まった。
今はまだ6月だし、北国の6月は決して暑い季節ではない。
東京だって、きっと、夏にはまだ早すぎるのだ。

けれど、僕は少しでも早く夏について語りたいし、語るべきだと思う。
時間との戦い。
それほどまでに、北国の夏は短く、あっという間に過ぎ去っていくのだ。

別に背伸びするつもりはないし、特別のことを書こうとしているわけでもない。
いつもの年の、いつもの夏と同じように、僕はただ、夏について語り続けていたいだけだ。
そして、僕の夏はいつだって「風の歌を聴け」から始まった。





にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 札幌情報へ
にほんブログ村
↑↑↑↑↑
「にほんブログ村」に参加をしてみました。
1日1回のクリックをお願いいたします!
by kels | 2013-06-13 21:36 | 夏のこと | Comments(0)