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「ライ麦畑」という安住の地に馴染むことができなかった子どもたち

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でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、
小さな子ども達がいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、
僕はいつも思い浮かべちまうんだ。
何千人もの子どもたちがいるんだけれど、他には誰もいない。
つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。
僕のほかにはね。

それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。
で、僕がそこで何をするかっていうとさ、
誰かがその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。

つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、
どっからともなく現れて、その子をさっと「キャッチ」するんだ。
そういうのを朝から晩までずっとやっている。
ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。

「キャッチャー・イン・ザ・ライ」J.D.サリンジャー/村上春樹・訳(1951年)

この2週間くらいは、どうにも体調が良くなかったので、本ばかり読んでいた。
と言っても、新しいものを読む気にはなれなくて、古い小説を思い出したようにめくって。
何度読み返しても新しい発見のある小説というものが、世の中にはある。

「ライ麦畑でつかまえて」も、おそらくそういう小説のひとつだろう、と僕は思う。

ところで、こういう名作というのは、題名を知っていても内容を知らないという人は、意外と多いらしい。
「ライ麦畑でつかまえて」という作品名が、何を意味しているのか。
それは、この小説を読んでみなくては、やはり理解することはできないものだ。

それにしても、「ライ麦畑」が、僕たちにとって安住の地であるのだとしたら、そこから落ちていくことは、やはりきっと寂しいことに違いない。
そして、僕たちの周りでは、いつでもたくさんの子どもたちが、この「ライ麦畑」から消え続けているのかもしれないのだ。
「ライ麦畑」という安住の地に馴染むことができず、溶け込むことができず、受け入れてもらうことができず。

そんな子どもたちを救うことができるのは、やっぱり彼らの気持ちを理解することのできる者だけなんだろうなあ。
例えば、「ライ麦畑のキャッチャー」なんていうね。


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by kels | 2016-02-13 08:32 | 文学 | Comments(0)

僕は、「朝活」とかいう言葉が出るずっと前から、「朝型人間」である

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生まれてこのかた、一度として会社と名のつくところに勤めたことがない。
とはいってもべつに、会社勤めを拒否して生きてきたというわけではなくて、なんとなく成りゆきでそうなってしまっただけのことである。
僕はときどき思うのだけれど、もし人生を構成している要素のひとつひとつをカラー・マーカーか何かで塗り分けていくとしたら、「成りゆき」を塗るための色のマーカーは、かなりの量が必要になるだろう。

「ランゲルハンス島の午後」村上春樹(1986年)

考えてみれば、何から何まで計画的にきちんと生きている人間なんて、そう多くはないだろう。
ある意味、成りゆきに身を任せることが人生だと言ってもいいくらいだ。
計画とか決断とかいうのは、求められたときに活躍するのかもしれない。

それはそうとして、僕は早朝の活動が好きだ。
「朝活」とかいう言葉が出るずっと前から、「朝型人間」である。
実際、朝というのは、一日の中で、もっとも調子の良い時間帯なのだ。

世の中には、そういう朝の時間帯を有効に活用して生きている人たちも多いらしい。
でも僕としては、時間が許してくれるなら、その朝の時間帯を、最もゆったりと過ごしたいと思う。

のんびりと珈琲を淹れて、クラシック音楽を聴いて、雑誌をめくって、みたいな。
そして、頭がすっきりとしてきたところで、簡単な筋トレをしてから朝風呂に入る。
風呂から上ったら朝刊を読んで、さあ、朝ごはんだ。

もちろん、ビジネスマンの日常の朝に、そんな余裕はない。
目を覚ましてから家を出るまでの90分を、いかに有効に活用するかが命題である。
毎朝5時に起床しても、時間のゆとりなんて、どこにもないんだから。

まあ、今日は代休を取っているので、ゆっくりとブログなど書いているわけですが。


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by kels | 2016-02-12 05:48 | 随想 | Comments(0)

二軍選手を買わないと決めてから、洋服を買う回数はかなり減った

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もちろんサンタクロースは本当にいるよ。
でもひとりきりじゃとても仕事が片づかないから私たちみんながサンタクロースなのさ。
私もそうだし、お前だってそうだよ。いとこのビリー・ボブだってね。

「あるクリスマス」トルーマン・カポーティ/村上春樹・訳(1982年)

街をフラフラしながら、何か用事を見つけようと思って、セレクト・ショップをいくつか覗いてみた。
だけど、結局のところ、僕の買うべきものは、特に見当たらなかった。
つまり、セールが始まっても、僕の買うべきものは特に見当たらないということになる。

二軍選手を買わないと決めてから、洋服を買う回数はかなり減った。
「値段が安い」ということは、洋服を買う理由にはならなかった。
必要なものを必要なときに買う、それだけだ。

ひとつひとつの値段は高くなっているかもしれない。
それでも、トータルでは、そんなに無駄遣いをしているという感じはしていない。
何より余計なものを買わなくなって、クローゼットがすっきりとした。

もう、この冬に冬物を買うことは、きっとないだろう。
そして僕は、年が明けたら新しい春物のことだけを考えて過ごすのだ。
セレクトショップの新しいカタログを心待ちにして。


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by kels | 2015-12-23 20:56 | ファッション | Comments(0)

明日はクリスマス・イブだというのに、札幌の街には雪がなかった

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そして僕はクリスマス・イブを、胸ときめく太っちょサンタの到来をいつものように心待ちにした。
もちろん僕はそのじゃらじゃらと音を立てるでっぷりした太っ腹の大男が煙突からどすんと落ちてきて、楽しげにクリスマス・ツリーの下に贈り物を並べていくのを見たことはなかった。

「あるクリスマス」トルーマン・カポーティ/村上春樹・訳(1982年)

クリスマスの空気を感じたくて、用事もないのに街へ出かけた。
何の用事もないのに。
考えて見ると、いつだって僕は、用事もないのに街をふらついている。

地下街の書店で文庫本を一冊買って、そのままスターバックスコーヒーに入った。
ホワイトモカのコーヒークリームラテを注文して、黙って本を読んだ。
祝日だというのに、カフェは意外と空いているような気がした。

そう言えば街全体が、意外と落ち着いていたような気がする。
クリスマスのざわめきはあったけれど、それ以上でもそれ以下でもないというか。
おかげで僕はゆっくりと小説を読み、コーヒーを飲み干し、街を眺めることができた。

あるいは、それは、街に雪がないせいかもしれなかった。
明日はクリスマス・イブだというのに、街には雪がなかった。
札幌のクリスマスとしては、それが季節感を少し損なわせていたのかもしれない。


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by kels | 2015-12-23 20:46 | 冬のこと | Comments(0)

村上春樹の作品にはよく北海道が登場する。代表例が「羊をめぐる冒険」と「ダンス・ダンス・ダンス」だ。

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「羊をめぐる冒険」(1982年)の舞台とされるのが、道北の上川管内美深町仁宇布である。
鉄道で塩狩峠を越え、たどり着くのが「札幌から260キロメートル」「主要産業は林業と木材加工」である「十二滝町」の「日本で第3の赤字路線」の終着駅。
旧国鉄美幸線の終点だった仁宇布に重なる。

そこに羊450頭を飼う松山農場がある。
主人公が訪れる羊牧場にロケーションが酷似しているとして、国内外の村上文学ファンが集まる「聖地」となっている。

ところが、農場主の柳生佳樹さんは、「80年ごろに農場を開いたが最初は肉牛。羊を始めたのは87年で、小説が出たときは、まだ羊牧場じゃなかった」と打ち明ける。
96年に羊飼い仲間から初めて小説のことを知らされ、読んでみて驚いた。
「ここにそっくり。なんという偶然なんだろうと」

村上さんは81年に滝川や士別で羊を取材したが、美深に来たかは不明だ。
ただ、村上文学に詳しい札幌大の山崎真紀子教授(日本近現代文学)は、「作者は学生時代から何度も道内を旅行。美深も訪れていたはずで描写にリアリティ-がある。作家として記憶の抽斗から最もふさわしい場所を選んだのでは」と推し量る。

「羊をめぐる謎」和田年正(北海道新聞2015年10月17日付け夕刊)

村上春樹の作品には、よく北海道が登場する。
その代表例が、「羊をめぐる冒険」と「ダンス・ダンス・ダンス」だ。
札幌をはじめとして、道内各地の実在地名が登場する。

ところが、「羊をめぐる冒険」の重要な舞台となる「十二滝町」は架空の町だった。
開拓の歴史など詳細に描かれる背景が、舞台が架空の町であることを求めたのだろう。
実際、十二滝町が架空の町であることで、小説は小説として成り立っている。

一方で、この架空の町のモデルを巡って、様々な憶測が広がることになる。
そして、その結論のひとつが上川管内美深町仁宇布だった。
この推論は、今や定説として、すっかりと定着したらしい。

作品の舞台を訪ねて回ることは、文学を楽しむ方法のひとつである。
架空の町のモデルを想像しながら旅をするのも、また文学の楽しみ。
そう、文学というのは作品の中だけで終わらせてはもったいないものなのだ。

僕たちは身近な文学散歩をもっともっと楽しむべきなんだろうなあ。


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by kels | 2015-10-17 19:37 | 文学 | Comments(0)

恋の夢を見ることができるほどには、僕にもまだ希望はあるらしい(笑)

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なあ、年月というのは、人をいろんな風に変えていっちゃうんだよ。
そのときに君と彼女との間で、何があったのかは知らない。
でも、たとえ何があったにせよ、それは君のせいじゃない。
程度の差こそあれ、誰にだってそういう経験はあるんだ。

「国境の南、太陽の西」村上春樹(1992年)

懐かしい夢を見た。

僕はまだ高校生で、好きな女の子に、その恋を打ち明けられないでいた。
二人とも微妙な距離を保ちながら、お互いの気持ちを測りかねている。
そんな幼い恋だったのだろう。

「どうして、そんなことを言うのよ」と、彼女は大きな声で言った。
大きな瞳が怒りで満ちていた。
身に覚えのないことで、僕は怒られているのだ。

「僕は何も言っていないよ」と、僕は言った。
それから長い時間をかけて、僕は彼女の誤解を解いた。
疑わしい表情をして、それでも彼女は最後には、僕を信用してくれたらしい。

いつもはおとなしい彼女だったけれど、友達のことになると、いつでも真剣だった。
正確に言えば、誰に対しても平等で公平だった。
うっかり冗談も言えやしないぜ、と僕は思った。

放課後、校舎からバス通りへと続く帰り道で、僕は彼女に追いついた。
夕闇が街を包み始めていて、僕は黙って彼女と手をつないだ。
彼女が、また怒るのではないかと思ったけれど、何も言わなかった。

坂道を登ってきた顔見知りの教師が、夕闇の中、すれ違い様に何か言った。
「何て言ったの?」と、僕は彼女に小さく訊ねた。
「また、女を変えたのかって」と、彼女は無表情に言った。

そこで目が覚めた。

知らない街の、知らない学校で、僕は知らない女の子に恋をしていたらしい。
あるいは、そういう人生もあったのかもしれないなと、僕は思った。
世の中には、星の数と同じくらいの恋に満ち溢れているのだから。

何はともあれ、恋の夢を見ることができるほどには、僕にもまだ希望はあるらしい(笑)


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by kels | 2015-09-23 22:01 | 随想 | Comments(0)

Apple Musicが配信されて以来、生活の中の音楽は、Apple Musicが中心になった

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それから秋がやってきた。
秋がやってきたときには、僕の心はもうほとんど定まっていた。
こんな生活をこのままずっと続けていくことはできないと、僕は思った。
それが僕の最終的な結論だった。

「国境の南、太陽の西」村上春樹(1992年)

7月にApple Musicが配信されて以来、生活の中の音楽は、Apple Musicが中心になった。
こうしてブログを書いている今も、Apple Musicでシューベルトの歌曲集を聴いている。
ディースカウとムーアのシューベルト歌曲集を、全部ダウンロードしたのだ。

おかげで、どこにいても作業用のBGMはシューベルトになった。
全部で463曲もあるから、おそらく、絶対に飽きることはない(笑)
これだけでも、Apple Musicに登録した価値はあるのではないだろうか。

最近では、わざわざコンポまで歩いていって操作するのが面倒なくらい(笑)
もう長年愛用しているステレオコンポだから愛着はあるんだけれどね。
ゆっくりと音楽を聴くという生活ができていないということなんだろうな。

まあ、のんびりとレコードを聴く楽しみは、将来のために取っておこうか。


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by kels | 2015-09-23 05:04 | 音楽 | Comments(0)

新しい秋は、去年の秋とは、やっぱり違う季節ということらしい

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我々が朝食を食べ終え、ポーチに出たのは9時だった。
夜を境に気候は一変したらしく、空気には既に秋の匂いがあった。
ギャッツビーの以前の使用人の中ではただ一人残っていた庭師が、階段の下に姿を見せた。
「今日にもプールの水を抜いてしまおうと思っとります」

「グレート・ギャツビー」スコット・フィッツジェラルド/村上春樹・訳(2006年)

実際、札幌の街は、すっかりと秋らしい空気になった。
何が秋らしいと言うのではない。
空気がすっかりと秋らしいのだ。

街が落ち葉に埋もれる晩秋と違って、初秋はさりげなく、そして慎ましやかだ。
熱病が冷めてしまうみたいに、夏は、いつの間にか遠ざかっている。
そして、みんな少しづつ、この新しい季節の空気に慣れてしまうのだ。

過ごしやすいという意味では、確かに良い季節である。
暑すぎもせず、寒すぎもしない。
太陽の高いうちであれば、上着だって必要ないだろう。

ただし、昼と夜との気温差が大きいのも、この季節の特徴である。
かつて何度も、この季節に風邪をひいた。
いつまでも夏のつもりで、薄着で過ごす夜が原因なのだ。

どんな環境にも、なじむまでには時間がかかる。
季節でも人間関係でも、それは同じだ。
新しい秋は、去年の秋とは、やっぱり違う季節ということらしい。


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by kels | 2015-09-23 04:03 | 秋のこと | Comments(0)

映画「華麗なるギャツビー」の字幕では、「友よ」という表現が使われていた

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僕が『グレート・ギャツビー』を翻訳していると言うと、アメリカ人はまず、「じゃあ、ギャツビーの口癖であるold sportは、どう日本語に訳すのですか?」と質問してきた。
当然と言えば当然の質問である。
もしアメリカ人だったら、僕だって同じ質問をすると思う。

「グレート・ギャツビー(あとがきより)」村上春樹(2006年)

結局、村上春樹は、この「old sport」問題を「オールド・スポート」と訳すことで決着を図った。
適当な、うまい具合の日本語が見つからなかったわけだ。
翻訳というのは難しい作業なんだなあと、つくづく思う。

もっとも、役者によるあとがきの解説がなければ、「オールド・スポート」が何を意味するものか、まったく分からないという問題は残る。
意味が分からなくても筋書きには影響しないのだが、ギャツビーの存在を理解する上で、これはやっぱり寂しい。
この口癖こそが、ギャツビーのアイデンティティのひとつになっている部分はあるからだ。

2013年公開の映画「華麗なるギャツビー」の字幕では、「友よ」という表現が使われていた。
ちなみに、1957年翻訳の野崎孝版では、「親友」。
親しくもない人に対して、親しげに呼びかける俗語だったのかもしれない。

おやすみ、オールド・スポート(笑)


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by kels | 2015-09-22 06:58 | 文学 | Comments(0)

昔の恋人のことも、好きだった女の子のことも、記憶は不鮮明で、思い出だけが鮮やかだ

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僕は恋人のことを考えた。
そして彼女がどんな服を着ていたか思い出してみた。
まるで思い出せなかった。
僕が彼女について思い出せることは、全部漠然としたイメージだった。
僕が彼女のスカートを思い出そうとするとブラウスが消え失せ、僕が帽子を思い出そうとすると、彼女の顔は誰か別の女の子の顔になっていた。
ほんの半年前のことなのに何ひとつ思い出せなかった。
結局、僕は彼女について何を知っていたのだろう?

「午後の最後の芝生」村上春樹(1982年)

どんなに頑張っても、思い出せない記憶がある。
同時に、どんなに忘れようとしても、忘れられない記憶がある。
記憶というのは、不公平で、とても扱いにくいものなのだ。

時々、こんなことを考えた。
今この瞬間のことを、僕は永遠に忘れることはないだろう、と。
だけど、記憶はちゃんと失われていて、多くの瞬間を、僕が思い出すことはない。

記憶が鮮明でない分だけ、思い出は僕の中でしっかりと形づくられていく。
僕にとって都合の良い、僕だけの思い出のままで。
そんな思い出たちが、今の僕を支えていることも、また確かなのだろう。

昔の恋人のことも、好きだった女の子のことも、記憶は不鮮明で、思い出だけが鮮やかだ。


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by kels | 2015-07-26 18:22 | 随想 | Comments(2)