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多くの小説を読みながら、人生をより深く生きるためのヒントを得てきた

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あと二週間たつと、一年中で一番日の長い日がくるのよ。
あんたたち、一年中で一番日の長い日をいつも待ちうけていながら、いよいよというときにうっかり過ごしてしまうことってあって?
あたしはね、一年中で一番日が長い日を待ちうけていながら、いつもうっかり過ごしてしまうんだ。

「華麗なるギャツビー」スコット・F・フィッツジェラルド/野崎孝・訳(1925年)


昨日からフィッツジェラルドの「ギャツビー」を読み始めた。
「ギャツビー」は一夏の物語である。
当然、僕にとっては、夏に読むべき物語のひとつとなっている。

良い小説というのは、作品の中のささいな文章のひとつひとつさえが啓示に満ち溢れている。
啓示に満ちた文章を読むとき、読者は、そのひとつの文章から、何かを学び取ろうとする。
そうやって僕は、多くの小説を読みながら、人生をより深く生きるためのヒントを得てきたように思う。

人生にはやはり読書が必要である。
そして、良質の読書は、きっと人生を豊かにしてくれる。
そういう意味で、僕は「ギャツビー」に出会うことができて良かったと信じている。

by kels | 2017-06-10 06:12 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)

9月の札幌の夕暮れには、やはり上着はあった方がいい

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それがギャツビーの父親だった。
いかにも謹厳実直な顔つきの老人で、困惑し、途方に暮れた様子だった。
9月の暖かい日だというのに、丈の長い安物の厚いコートに身を包んでいた。

「グレート・ギャツビー」スコット・フィッツジェラルド/村上春樹・訳(1925年)

今日の札幌が、まさに、9月の暖かい日だった。
午後の日差しは眩しくて、夏のような汗を流した。
残暑のない9月だったから、この暑さは久し振りだと思った。

それでも、夕暮れ時には冷たい風が吹いた。
太陽が沈んでから出かける人たちは、薄手のコートに身を包んでいた。
9月の札幌の夕暮れには、やはり上着はあった方がいい。

季節の変わり目というのは、人々の服装も様々だ。
半袖にショートパンツというサマースタイルの人たちと、ニットにコートという秋スタイルの人たちが混在している。
この中途半端な季節は、もうしばらく続くのだろう。


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by kels | 2015-09-23 21:31 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)

新しい秋は、去年の秋とは、やっぱり違う季節ということらしい

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我々が朝食を食べ終え、ポーチに出たのは9時だった。
夜を境に気候は一変したらしく、空気には既に秋の匂いがあった。
ギャッツビーの以前の使用人の中ではただ一人残っていた庭師が、階段の下に姿を見せた。
「今日にもプールの水を抜いてしまおうと思っとります」

「グレート・ギャツビー」スコット・フィッツジェラルド/村上春樹・訳(2006年)

実際、札幌の街は、すっかりと秋らしい空気になった。
何が秋らしいと言うのではない。
空気がすっかりと秋らしいのだ。

街が落ち葉に埋もれる晩秋と違って、初秋はさりげなく、そして慎ましやかだ。
熱病が冷めてしまうみたいに、夏は、いつの間にか遠ざかっている。
そして、みんな少しづつ、この新しい季節の空気に慣れてしまうのだ。

過ごしやすいという意味では、確かに良い季節である。
暑すぎもせず、寒すぎもしない。
太陽の高いうちであれば、上着だって必要ないだろう。

ただし、昼と夜との気温差が大きいのも、この季節の特徴である。
かつて何度も、この季節に風邪をひいた。
いつまでも夏のつもりで、薄着で過ごす夜が原因なのだ。

どんな環境にも、なじむまでには時間がかかる。
季節でも人間関係でも、それは同じだ。
新しい秋は、去年の秋とは、やっぱり違う季節ということらしい。


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by kels | 2015-09-23 04:03 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)

映画「華麗なるギャツビー」の字幕では、「友よ」という表現が使われていた

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僕が『グレート・ギャツビー』を翻訳していると言うと、アメリカ人はまず、「じゃあ、ギャツビーの口癖であるold sportは、どう日本語に訳すのですか?」と質問してきた。
当然と言えば当然の質問である。
もしアメリカ人だったら、僕だって同じ質問をすると思う。

「グレート・ギャツビー(あとがきより)」村上春樹(2006年)

結局、村上春樹は、この「old sport」問題を「オールド・スポート」と訳すことで決着を図った。
適当な、うまい具合の日本語が見つからなかったわけだ。
翻訳というのは難しい作業なんだなあと、つくづく思う。

もっとも、役者によるあとがきの解説がなければ、「オールド・スポート」が何を意味するものか、まったく分からないという問題は残る。
意味が分からなくても筋書きには影響しないのだが、ギャツビーの存在を理解する上で、これはやっぱり寂しい。
この口癖こそが、ギャツビーのアイデンティティのひとつになっている部分はあるからだ。

2013年公開の映画「華麗なるギャツビー」の字幕では、「友よ」という表現が使われていた。
ちなみに、1957年翻訳の野崎孝版では、「親友」。
親しくもない人に対して、親しげに呼びかける俗語だったのかもしれない。

おやすみ、オールド・スポート(笑)


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by kels | 2015-09-22 06:58 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)

映画を観ながら、つくづく村上春樹の初期作品における「ギャツビー」の影響力を感じた

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「華麗なるギャツビー」の映画を観てきた。
映画そのものにはまったく期待していなかったけれど、ブルックスブラザーズが衣装を担当しているということで、映画の中に登場するスーツやらシャツやらを観たかったのだ。
などという予想に反して、映画そのものも面白かったので、とても満足。

ストーリーは、基本的には原作に忠実で、原作の持つ切なさをある程度感じることができた。
一部の演出に映画らしさを感じて辟易するものはあったにしても、突飛過ぎる羽目を外した展開はなかったと思う。
満足できない部分があったとしたら、演出やシナリオよりも配役の方だったかもしれない。

ところで、映画を観ながら、つくづく村上春樹の初期作品における「ギャツビー」の影響力を感じた。
アメリカの映画を観ているのに、村上春樹の小説のことを何度も何度も思い出していたのだ。
もちろん、それは決して悪い意味にではなく、僕にとっては優しいノスタルジーを感じる気持ちに似ていた。

センチメンタルで自己破滅型のスターであるギャツビーは、「ダンス・ダンス・ダンス」に登場する五反田君を思い出させる。
ギャツビーも五反田君も、ごく控え目な男性である物語の語り手に対して強い愛情を持ち、強い信頼感を寄せている。
二人の男が、大人の青春というものの切なさやはかなさを美しく描き出しているところも共通点かもしれない。

物語の語りであるニックとギャツビーとの関係は、「ノルウェイの森」におけるワタナベくんと永沢さんの関係性を連想させる。
傍観者に徹しようとするワタナベくんは、彼女がいるのに他の女の子たちともセックスをする永沢さんに巻きこまれ、彼の暮らしの表と裏に付き合わされることになる。
巻きこまれながらも、あくまで傍観者に徹しようとするその姿は、「ギャツビー」のニック・キャラウェイに相通ずるものがある。

「華麗なるギャツビー」の主人公は、やはり、語り手であるニック・キャラウェイだったのではないだろうか。
ジェイ・ギャツビーという一人の男性を描き出す過程の中で表現されているのは、ニックの強い感受性とプライド、そして鋭い観察眼である。
ニックの目を通して観察され、ニックの言葉を通して語られることにこそ、「ギャツビー」の価値はあったのだ。

ところで、ギャツビーがディジーに向かって次々とドレスシャツを放り投げていくシーンは、この映画の中でも重要なシーンの一つだったが、例の印象的な台詞がなかったのは、個人的にちょっと残念。
まあ、原作を読んでいなければ、格別ストーリーに影響する部分ではないので、仕方ないといえば仕方ないのだけれど。

あと、この物語は、一夏の出来事を描きだしたものなので、もう少し夏らしい季節感を演出してほしかった。
1920年代という時代を表現するには十分すぎるほどだったけれどね。


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by kels | 2013-07-06 06:33 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)

「グレート・ギャツビー」は、30才になるまでに、一度は読んでおきたい小説だ

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「グレート・ギャツビー」は、30才になるまでに、一度は読んでおきたい小説だ。
なぜなら、男が大人になるまでに、何が必要であって、何が必要ではないのか、そういったことを、この物語は実によく考えさせてくれるからだ。

ここで大切なことは、この物語は、お節介な説教めいた教訓を読者に押し付けるのではなく、あくまでも、「大切な何か」について、僕たちに考えさせてくれる、ということだ。
自ら思考し、悩み、壁にぶつかり、その壁を乗り越えようとする忍耐と自尊心のようなものがあってこそ、男はおとなになったと言えるのかもしれない。

物語の最後で、語り手であるニックは、別れた恋人とこんな会話を交わしている。

「そうだ、あんた覚えてる?」
彼女はつけ加えて言った。
「あたしたちがいつか車の運転のことで話したこと」
「さあ-正確には覚えてないな」
「あんた、へたな運転手は、もう一人へたな運転手と出会うまでしか安全でないって、言ったでしょ。あたしは、もう一人のへたな運転手に出会ったのよね。つまり、あんたの見当はずれの推測をしたのは、あたしの不注意でしたってこと。あたしはね、あんたのことを正直で率直な人だと思ったんだ。それがあんたのひそかな誇りなんだと思ったの」
「ぼくは三十ですよ」と、ぼくは言った。
「自分に嘘をついて、それを名誉と称するには、五つほど年をとりすぎましたよ」

「華麗なるギャツビー」スコット・フィッツジェラルド(1925年)野埼孝・訳

20代から30代へと年を取る、その過程の中で、男は青春の最後の輝きを感じる瞬間がある。
ニックもギャツビーも、その瞬間を、それぞれの価値観の中で通り過ぎ、あの切ない大人へと成長していったのだ。
彼らの生き様が、男たち一人一人の哲学によって、人生に多様なドラマを生み出していることは言うまでもない。

「ギャツビー」というと、華麗なる部分のみが着目を浴びがちだが、実際のギャツビーは決して華やかなだけの人生ではない。
むしろ、華やかなるざる人生の中で、華麗なる一面のみが物語のタイトルとして与えられたにすぎない。
ニックの冷静で、しかし、人間味に溢れた観察眼は、誰にも理解されることのなかったギャツビーの心の渇きさえをも丁寧に汲み取ろうと努力している。

ぜひ、「華麗なるギャツビー」は、30才になる前に読んでいただきたい。
そして、30才になってから、もう一度読み返してみてほしい。
男にとって30才という年齢がどのようなものなのか、それを、この小説から感じ取ることができるかもしれない。

ところで、村上春樹がこの小説をとても愛していることは有名な話で、近年になって、翻訳も果たしている。
「ノルウェイの森」を読んで感動した人間にとっては、村上春樹訳を読みたいところだが、僕は、古くもなじみ深い野崎孝の訳による一読をお勧めしたい。
切ないくらいの優しさが、そこからはにじみ出ていることだろう。





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by kels | 2013-06-17 19:42 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(2)

「華麗なるギャツビー」とブルックスブラザーズ、そして遠いアメリカ

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フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」は、夏にこそ読まなければならない小説の一つだ。
とりわけ、2013年の夏に至っては、僕はそのことを「ブルックス・ブラザーズ」の店頭に置かれているパンフレットによって思い出させられた。

「華麗なるギャツビー」は、1922年の真夏のアメリカ東部を舞台として描かれている。
そこには、人生やら愛情やら哲学やら、様々なものが雑多に詰め込まれていて、この小説を読む者に対して、深い啓示やら教訓やら忠告やらを振りまいてくれる。
あるいは、「ブルックス・ブラザーズ」さえも、僕らに与えられた警告の一つなのかもしれない。

実際、この小説には、ドレシャツについて描かれた、世界でもっとも有名なフレーズが残されている。

まもなく平静をとりもどすと、彼は、ぼくたちに巨きな新式の用箪笥を二つ開けてみせた。
中には彼の洋服やら化粧着やらネクタイなどがごちゃごちゃに詰めこまれ、彼のワイシャツが煉瓦のように一ダースひとまとめにして山と積まれて入っていた。
「英国に、わたしの衣類を買ってくれる男がいましてね。春と秋と、シーズンのはじめごとに、いいものを見たてては送ってよこすのです」
彼はワイシャツの一束をとりだすと、一枚一枚ぼくたちの眼前に投げてよこした。
薄麻のワイシャツ、厚手の絹のワイシャツ、目のつんだフランネルのワイシャツ、投げだされるがままにひろがって、テーブル一面に入り乱れた色とりどりの色彩を展開した。
ぼくたちが感嘆の言葉をはくと、彼はさらに多くをとりだしてくる。
柔らかい豪奢な山がますます高くなってゆく。
さんご色や、淡緑、藤色に淡い橙、縞あり、雲型あり、格子縞あり、それらにイニシアルの組み合わせが濃紺色で入っているのまでがある。
突然感極まったような声をたてて、ディズィは、ワイシャツの山に顔を埋めると、激しく泣きだした。
「なんてきれいなワイシャツなんだろう」
しゃくりあげる彼女の声が、ワイシャツの山の中から、こもって聞こえた。
「何だか悲しくなっちまう。こんなに-こんなにきれいなワイシャツって、見たことないんだもの」

「華麗なるギャツビー」スコット・フィッツジェラルド(1925年)野崎孝・訳


どうしてディズィが、ワイシャツを見たくらいで泣いてしまうのか。
これについては、板坂元が「紳士の小道具」の中で、次のように推測している。

ギャツビーがイギリスから取り寄せていたワイシャツは、ターンブル&アッサー社のものだった。
ロバート・レッドフォード版の映画「華麗なるギャツビー」では、ラルフ・ローレンがコスチュームを担当しているが、ワイシャツだけは、ターンブル&アッサー社のものだった。
最高級のシャツで、値段も超一流、オーダーは半ダース単位が普通だったという。

物語の舞台となっている1920年代、シルクやリネンは、現在よりもずっと高価で貴重なものだったのではないか。
そして、小説に登場するような色物の製造が始まったのは、おそらく1920年代の頃のことで、ギャツビーが所有するようなドレスシャツは、当時のアメリカではまだまだ珍しいものだったに違いない。
ディズィの涙からは、そのようなワイシャツの歴史が読み解かれる。

この物語の2013年版映画のコスチュームを、今度はブルックス・ブラザーズが担当しているという。

オリジナル・カタログでは、映画で使用されたモデルが紹介されていて、男の所有欲をそそる。
ワイシャツ一枚から1920年代のアメリカを旅することができるのだから、これは絶対に手にしてみたい。
もっとも、北海道内には取扱店舗がないということであるが。

さて、この小説について語るべきことは、まだまだたくさんあるけれど、それはまた次の機会に。





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by kels | 2013-06-16 22:01 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)