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嵐のメンバーも、札幌の雪景色を見たんだろうな。

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「君はどうする?」
鼠は暗闇の中で楽しそうに笑った。
「俺にはもう、これからなんてものはないんだよ。一冬かけて消えるだけさ。
その一冬というのがどの程度長いものなのか、俺には分からないが、とにかく一冬は一冬さ」

「羊をめぐる冒険」村上春樹(1982年)


この週末、札幌はちょっとした特需に沸いていた。
毎年恒例、嵐の札幌ドームツアーが開催されているのだ。
北国の小さな田舎町は、どことなく色めき立っているように見える。

実際、札幌の街がここまで高揚するイベントは、他にはないんじゃないだろうかと、僕は思っている。
雪まつりやヨサコイやビアガーデンなんかよりも、ずっと、この3日間の高揚感はすごい。
札幌ドームに向う地下鉄東豊線に乗ろうなんて、間違っても考えたくない。

ドームを離れた街にいてさえ、嵐の熱気は十分に伝わってくる。
ライブツアー限定のトートバッグをぶら下げた女性が、街中を席巻しているからだ。
おかげで、この週末は、いつものカフェでさえ、いつもよりも混雑しているように感じられた。

そして、同じ週末、僕は村上春樹の「羊をめぐる冒険」を読み終えた。
冬が始まる前の心の準備みたいに、年に一度、僕はこの古い小説を読み返している。
そして毎年のように何かしらの新しい発見をする自分自身に驚いている。

嵐のメンバーも、札幌の雪景色を見たんだろうな。


by kels | 2017-11-19 16:40 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)

夜のうちに降り出した雪は、一晩の間に再び街を埋め尽くしてしまったのだろう

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十二日目に三度目の雪が降った。
僕が目覚めたとき、既に雪は降っていた。
おそろしく静かな雪だった。
固くもなく、べっとりとした湿り気もない。
それはゆっくりと空から舞い下り、積もる前に溶けた。
そっと目を閉じるようなひそやかな雪だった。

「羊をめぐる冒険」村上春樹(1982年)


朝、目を覚ますと、街は雪に埋もれていた。
いよいよ冬が到来するのだという気持ちが強くなる。
もちろん、この雪は、本物の冬の雪ではないのだろう。

昨日の朝にも、街には雪が降っていた。
雪は積もるかと思ったけれど、午後にはすっかりと溶けていた。
そして、夜のうちに改めて降り出した雪は、一晩の間に再び街を埋め尽くしてしまったのだろう。

こうして少しずつ、冬は僕たちの暮らしの中へと近づいてくる。
ゆっくりと、しかし、着実に。

by kels | 2017-11-19 16:23 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(2)

森田たまは、北海道が最も北海道らしかった時代の記憶を、生涯抱き続けていたのではないだろうか

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雪のちらつく十一月に、何をおいてもしなくてはならぬのが、漬けものでした。
それが半年の間の、いちばん大切なおかずなので、どこの家でも四斗樽を井戸端に並べて、せっせと漬けます。
しばらく陽に干して、少ししなしなと甘くなった大根を長さ二寸ほど、四つ割にして、みがき鰊と麹で漬けこむ、にしん漬け。
これは、冬の漬けものの王様です。

「冬支度」森田たま(1951年)


「冬支度」は、昭和31年に刊行された随筆集「ゆき」所収の作品である。
森田たまは、明治44年に上京して以降、北海道で生活することはなかった。
したがって、にしん漬けの記憶も、少女時代の幼い思い出ということになる。

その昔、北海道の冬を越す開拓者たちにとって、冬の野菜不足は非常に大きな課題だった。
漬けものは、北海道の冬に野菜を補給するための、重要な保存食だったという。
寒冷な北海道の気候が、特に、この地域独特の漬けもの文化を発展させたということもあるだろう。

流通や冷凍技術が発達すると、北海道内においても、冬の商店には野菜が並ぶようになった。
漬けものだけで、冬の野菜不足に対応する時代は終わったのである。
高度経済成長の時代を経る中で、家庭で漬けものを作る習慣は、どうやら廃れてしまったらしい。

一方で、生活様式の発展や温暖化の進行に伴って、昔と同じような漬けものを作ることは難しくなったとも聞く。

北海道の漬けものは、真冬の厳しい環境の中で生まれてきたものだ。
しかし、寒冷地住宅の開発は進み、北海道の冬を快適に過ごすことが可能になった。
暮らしやすい住宅環境は、北海道らしい漬けものを作るには、少し場違いになってしまったらしい。

そもそも、北海道の冬は、昔のようには寒くはないともいう。
森田たまが上京した1911年の冬を例に取ると、この年の1月、氷点下10度以下となった日が23日ある。
2016年1月では、氷点下10度以下となったのは1回だけだから、冬の寒さは全然違うと言ってよい。

森田たまが「ゆき」を刊行した1951年でも、氷点下10度以下の日は17回ある。
明治時代とは時代が変わりつつあるとは言え、北海道の冬は、まだまだ北海道らしさを十分に保っていた。
おそらく彼女は、北海道が最も北海道らしかった時代の記憶を、生涯抱き続けていたのではないだろうか。

by kels | 2017-11-05 17:46 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(2)

どうして、僕たちは、冬の厳しいこの土地で暮らし続けなければならないのか

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十一月はまたの名を霜月と言います。
私は子どものときから霜月という呼び名が好きでした。
北海道の十一月は、もうそろそろ雪の降り出す季節ですけれども、それでもよく晴れた日の朝早く、うらのキャベツ畑に出てみますと、黒い土の上一面に、うっすらと白く霜が降りていて、ずらりと並んだキャベツの玉の、きっちりと巻いた上皮がうす青く少しほぐれ、朝陽にとけた霜が瑞々しく葉を濡らしています。

「冬支度」森田たま(1956年)


札幌の街の紅葉が美しいのも一瞬である。
気が付けば、黄色い葉は散って、街は急激に寂しくなりつつある。
鮮やかだった藻岩山も、すっかりと枯れ山へと姿を変えた。

文明が進んだせいなのか、冬支度という言葉も、あまり聞かなくなった。
開拓以来、北海道の人々にとって冬を迎えるということは、人生の大きな節目にも似ていた。
長く厳しい冬を越すということは、言葉で言うほど簡単なことではなかったのだ。

冬が近くなるたびに、僕たちは北海道という風土と向き合わなければならない。
どうして、僕たちは、冬の厳しいこの土地で暮らし続けなければならないのかと。


by kels | 2017-11-05 08:26 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)

冬が近くなると、船山馨の「北国物語」を読みたくなる

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自動車は停車場通りをまっすぐに中島公園へぬける広い電車通りを走っていた。
道路の両側に巨大なアカシアの街路樹が鬱蒼として続き、その緑の繁みの間から、五番街デパートの赤煉瓦の建物がちらちら覗いたり、むかし北海道随一と言われた山形屋旅館の古い木造建築が見えたりするのは、もとのままの風景であったが、すぐその山形屋の一丁も先には、鉄筋コンクリートの八階建てのグランドホテルができ、そのまた少し先の十字街には、三越デパートの支店が瀟洒な六階建てで聳えていたりするのは、さすがにここも十四年の歳月がうかがわれるのであった。

「北国物語」船山馨(1941年)


冬が近くなると、船山馨の「北国物語」を読みたくなる。
物語冒頭に登場する札幌駅前通りの描写を見るだけで、この作品が札幌の街を舞台としていることが、よく分かる。
船山馨は、札幌西高校出身の郷土の作家だ。

札幌三越の開店は昭和7年、札幌グランドホテルの開館が昭和9年である。
伝統ある五番館百貨店や山形屋旅館の中に、新しい文化が生まれつつある街の姿が、そこには描かれている。
それは、10年以上も札幌の街を離れた者にとって、まさに激変とも言うべき街の変わり様だったに違いない。

船山馨が「北国物語」を発表してから、70年以上の時間が過ぎた。
伝統の象徴であった山形屋旅館も五番館デパートも既にない。
若い人たちには、その名前さえも歴史の副教材の中の言葉に過ぎないだろう。

停車場通りという言葉も、そこに並んでいたという巨大なアカシア並木も、今はもうない。
駅前通りと名前を変えた札幌のメインストリートは、現在もその姿を変容させつつある。
変わりながら成長していくことが、街の宿命なのだと言わんばかりに。


by kels | 2017-11-05 07:30 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)

終身雇用制度を背景として、大企業に入社することが、安定した人生の代名詞であった

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勉強することが、当たり前の時代になった。
なにしろ、高校進学率が99%近い時代である。
1960年には60%に満たなかったことを思うと、すごい時代の変わり様である。

時代の変化の中では、常に忘れられた言葉が存在するものだ。

「教育ママ」という言葉が登場したのは、1962年のこと。
当時は、私立幼稚園の入園願書受付に徹夜で並ぶ、教育熱心な母親がマスコミを賑わせた。

親の期待に応えるため、子どもたちは必死で「ガリ勉」をした。
古い言葉だが、現在も「ガリる」という形で一部に継承されている。

子どもの数が多い時代には「受験戦争」が激化した。
有名大学に入学することで、幸福な人生が約束されると信じられていた時代の物語である。

一流企業に入社した人を「エリート」と呼ぶ習慣もなくなった。
一流企業の中にも、さらに選ばれた「エリート社員」が存在していたものだ。

戦後から高度経済成長、バブルに至る時代にかけて、社会はまだ分かりやすかった。
終身雇用制度を背景として、大企業に入社することが、安定した人生の代名詞でもあったからだ。
一流企業に入社することが、子どもたちにとって共通の目標となり得た。

雇用構造の変化の中で、将来に求められる価値観は多様化し、子どもたちにとって「勉強」の持つ意味も、少しずつ変わりつつある。
今や知識の量ではなく、知識や経験をいかに生かすかが求められる時代だ。
教育ママに支えられながら、ガリ勉で受験戦争を勝ち抜き、エリート社員となった親の世代とは、もしかすると、世の中も変わっているのかもしれない。
by kels | 2017-11-05 07:02 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)