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彼女と彼の新しい一日が始まった瞬間だと思った

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通勤時間を過ぎたJRは空いていた。
もとより、札幌から岩見沢へと向かう普通列車である。
朝の遅い学生が、バラバラと乗っているに過ぎなかった。

僕の正面の席にも、おとなしい感じの女子大生が一人で座っていた。
列車が発車すると、彼女はすぐにバッグの中から荷物を取り出した。
そして、丁寧に化粧を始めた。

公共交通機関の中で、化粧をする女性は珍しいものではない。
最初のうち違和感を覚えていた人たちも、環境の変化というものには、じきに慣れてしまうものだ。
彼女は、ごく平凡な日常風景の中に溶け込んで、手馴れた手つきで化粧を続けた。

列車は、いくつかの駅に止まったけれど、乗り降りする人はほとんどなかった。
わずかな人数が、静かに乗車してきては、何事もなかったかのようにシートに座るだけのことだ。
誰も車内を見回しもしないし、そもそも周囲の状況になんて関心を持ってはいない。

僕の降りる駅が近くなっていた。
腕時計を気にしながら、何気なく正面を見ると、最初とは別人になった女性がいた。
化粧をすっかりと終えた彼女は、まるで生まれた瞬間からこんな顔だったというふうに、小さな荷物をバッグの中に片付けていた。

やがて、JRは次の駅に止まり、僕も彼女も、その他の多くの乗客も、その駅で降りた。
改札口を抜けたところで、彼女は待ち合わせをしていたらしい男性と、爽やかに朝の挨拶をした。
彼女と彼の新しい一日が始まった瞬間だと思った。


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by kels | 2013-08-31 08:00 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)

夏の終わりというのは、クールな小説家であってもセンチメンタルな気持ちになるらしい

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夏の終わりというのは、クールな小説家であってもセンチメンタルな気持ちになるらしい。
というようなことを、僕は村上春樹の「風の歌を聴け」を読んだときに思った。
特に、それを感じたのは、やはり、この部分のフレーズだろう。

夏の香りを感じたのは久し振りだった。
潮の香り、遠い汽笛、女の子の肌の手ざわり、ヘヤー・リンスのレモンの匂い、夕暮れの風、淡い希望、そして夏の夢・・・
しかしそれはまるでずれてしまったトレーシング・ペーパーのように、何もかもが少しずつ、しかしとり返しのつかぬくらいに昔とは違っていた。

「風の歌を聴け」村上春樹(1979年)

この小説は、まさしく一夏の物語である。
東京の大学に通っている主人公が、夏休みを利用して故郷に戻ってきている。
彼は、夏の終わりとともに、故郷の街を去って東京へと戻らなければならない。

故郷の街を去るということ、仲間たちと別れなければならないということ、そして、夏が過ぎ去ってしまうということ。
夏の終わりは、彼の暮らしの中で、様々なものに区切りを付けて、彼を次の展開へと進めようとする。
物語は、そんな夏の終わりと一緒にフェードアウトするように消えていこうとしている。

8月26日、という店のカレンダーの下にはこんな格言が書かれていた。
「惜しまずに与えるものは、常に与えられるものである」

僕は夜行バスの切符を買い、待合所のベンチに座ってずっと街の灯を眺めていた。
夜が更けるにつれて灯は消え始め、最後には街灯とネオンの灯だけが残った。
遠い汽笛が微かな海風を運んでくる。

「風の歌を聴け」村上春樹(1979年)

夏が特別な季節であるということは、世代や性別を問わずに変わらない感性なのではないだろうか。
その夏が終わろうとしている季節、人は言いようのない喪失感や虚脱感を覚えるはずだ。
それは、取り戻すことのできない青春の時間に似ていることを、人は大人になったあとで気が付く。

夏の終わりには、クールな小説家だって、少年のようなノスタルジーを持つものなのだろう。
そういう意味で、僕はこの小説が今でも大好きだ。
いつまでも瑞々しい少年の心を失わない夏が、物語の中には溢れているから。

あらゆるものは通りすぎる。
誰にもそれを捉えることはできない。
僕たちはそんな風にして生きている。

「風の歌を聴け」村上春樹(1979年)







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by kels | 2013-08-30 21:34 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)

僕の古着屋巡りのキーワードは、「MADE IN USA」と「MADE IN JAPAN」。

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『チープシック』つながりということになるかもしれないけれど、僕の最近のトレンドは、古着屋で見つけてきたヴィンテージ・アイテムだ。
ヴィンテージといっても、世の中で「ヴィンテージ品」と呼ばれるものではなくて、自分にとってだけ価値のある「マイ・ヴィンテージ」のこと。
他人にとって不要なものでも、自分にだけは大切なもの、それが「マイ・ヴィンテージ」だろう。

今の僕が集めているのは、1970年代から1980年代にかけての古着で、アイビーブームが再燃した時代に大量に流通した衣服。
シャツを中心にして、ネクタイから靴まで、そのアイテムは幅広い。
そして、誰も探していないということもあって、古着屋では、これらがまったくタダみたいな金額で取引されている。

というのも、僕が探しているのは、有名で人気のある海外ブランドとかではなくて、当時も今も大衆的な国産ブランドのものばかりだから。
その頃、「ドメブラ」と呼んだかどうかは知らないけれど。オールド・ドメブラのアイビー・アイテムは、ポケットマネーで80年代が手に入るんだからすごい。
もっとも、誰も欲しがらないから、そんな状況になっているんだけれど。

近年のアメトラ再評価の流れの中で、老舗のアメトラブランドの人気が続いているけれど、国産のアメトラブランドに対する再評価も、これから盛り上がるかもしれない。
一部関係者の懐古趣味で終わってしまう危険性はあるかもしれないにしても、「MADE IN JAPAN」の時代を見つめ直すには、ちょうど良い機会だと思う。
「日本製」、良い響きだ(笑)

「メイド・イン・ジャパン」という言葉が、USA並に貴重なものになってしまう時代がくるなんて、当時は誰も思わなかっただろうなあ。
ということで、僕の古着屋巡りのキーワードは、「MADE IN USA」と「MADE IN JAPAN」。
新品のCHINA製品を購入するのと同じような価格で、ずっと上等のものが手に入る。

日本復活の鍵は、やっぱり「MADE IN JAPAN」であってほしいなあ。


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by kels | 2013-08-29 21:54 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)

テレビを必要とする人生もあれば、テレビを必要としない人生もあるだろう

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元々テレビには頓着しない生活である。
この夏は、特にテレビの稼働率が低くて、全くと言っていいほどテレビを観ることがなかった。
8月に至っては、合計5分も観ていないはずだ。

特別にテレビを禁じているわけではない。
観る必要がないときに観ないようにしていたら、ほとんど観なくなってしまっただけのことだ。
そして、テレビを観ないことによって生じる影響は、少なくともこの夏に関しては何もなかった。

世の中の流れは、新聞を読んでいれば大体把握できる。
昔から新聞が好きで、何紙でも定期購読したいくらいだ。
履歴書に愛読書を書く欄があったとしたら、最初に「新聞」と書きたい。

それに、現在はインターネットのニュースサイトがある。
ネットの情報には不必要なものも数多いけれど、不必要だということも含めて、時代を理解する要素にはなる。
とりあえず、一般のビジネス社会で生きていく分に必要な情報は入手できるだろう。

結局のところ、テレビでなければならないというものは、僕には何もなかったらしい。
わざわざ自分から好き好んで、テレビ番組の時間帯に縛られていると思うと、ちょっとぞっとするような気もする。
そういえば、昔から時間的に縛られるということが、とても苦手な子供だった。

考えてみると、僕の毎日というのは、それなりに忙しい。
労働しなければならないのは当たり前として、余暇の時間を最大限自分の趣味に費やしている。
たくさんの雑誌を読み、週に数冊のコラム集を読み、郷土史に関する古い資料を調べ、買ってきたままの古い骨董品を整理し、撮ったままになっている写真を整理し、ナイトジョギングに出かけ、懐かしい音楽のレコードを聴き、思い出したように誰かに手紙を書き、そして、ブログの記事まで書いている。

テレビ番組を1時間観ることによって失われる僕の時間は、相当の損失だ。
もっとも、何が有益で何が無益であるかの判断は、人によって異なるものだ。
あるいは、雑誌を読んだり、骨董品を整理したり、ブログを書いたりしている時間の方が、ずっと無駄で馬鹿馬鹿しいと考える人生だってあるだろう。

まさに、人生は人それぞれで、人は自分にとって有益だと思える道を歩んでいくしかない。
テレビを必要とする人生もあれば、テレビを必要としない人生もあるだろう。
人は、全てを手に入れることはできないものなのだから。


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by kels | 2013-08-28 22:08 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)

雨の降る朝は、早朝のキャンプ場の風景を思い起こさせる

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静かに雨の降る朝というのは、僕に早朝のキャンプ場の風景を思い起こさせる。
数え切れないくらいのキャンプをしてきたけれど、雨の朝というのは本当に多かったような気がする。
そして、慣れてさえしまえば、キャンプ場の雨というのは、意外と悪くないものだ。

キャンプ場の朝というの、それが人気のスポットで、オンシーズンであるほどに賑やかなものだ。
周囲がうるさくて目を覚ますということも、決して珍しいことではない。
キャンプシの雰囲気を台無しにする、ほとんどの原因は、周囲のキャンパーにあるのが現実である。

ところが、雨の朝というのは、騒ぎようもないからなのか、不気味なくらいに静かなことが多い。
それは真夜中でも同じことで、雨降りのおかげでバカ騒ぎする連中が消えてしまうと、実際にせいせいする。
空気の汚されていない早朝というのは、なおさらに神聖で厳粛な一瞬なのだ。

一晩中、テントを打つ雨の音を聴きながら、深い眠りに就き、冷たい空気で目を覚ましたときも、雨の降り続く音だけがテントを包み込んでいる。
レインウェアを着込んで、そっとテントを抜け出しウィングタープの下に滑り込む。
タープは一晩分の雨の重みで、力なく垂れ下がっている。

とりあえず、タープの水を払ってから、ガスストーブに火をつけてお湯を沸かす。
熱いコーヒーを淹れて、そっと啜ったところで、早朝の雨の静かな美しさにようやく気が付く。
森と渓流の匂いを優しく包み込むような朝の雨の美しさ。

寒いし、冷たいし、体は濡れるし、全然快適じゃないのに、そんな雨の朝は妙に記憶に残るものだ。
そして、そうした記憶や感覚は、どれだけの時間が経っても、決して忘れることができないに違いない。
毎日の生活の中にはない非日常感が、雨の朝のキャンプ場では、一層強く効果的に浮かびあがっているからだ。

キャンプに出かけることもなくなってしまった今でも、僕はキャンプ場の朝といえば、あの寒くて冷たくて静かな雨の朝を思い出す。
誰とも共感のできない孤独と向き合いながら、僕は冷たい雨のコーヒーを飲み、自分の中にあるいろいろな問題と対峙していた。
胸が張り裂けそうなくらいの寂しさが、中途半端な僕を、少しだけ成長させてくれていたのかもしれない。


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by kels | 2013-08-27 20:41 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)

僕らにはできなかった 大人の恋はどうしても

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打合せをしているときに、突然、激しい光が散ったかと思うと大きな雷鳴が轟いた。
窓の外を見たときには、既に強い雨が街を叩き始めていた。
札幌の街の中心部の真上に、大きくて黒い雲があった。

こうした突然の雷雨は、この夏、珍しいものではなかった。
すぐに打合せを再開して、先方はプランの説明を続けたものの、僕の頭の中では、古い音楽が流れ始めていた。
虹とスニーカーの頃。

虹とスニーカーの頃という曲がヒットしていたのは、僕がまだ少年の頃だったのではないかと思う。
大人の男と女の世界を描いた歌詞は、幼い少年には刺激的で、大人という世界への強い憧れを感じさせた。
自分の知らない世界が、そこにはあるのだと思った。

白く浮かんだ水着の跡 指先でなぞれば雷の音
窓辺から顔を突き出して 虹を探してた君を覚えてる

スニーカーという言葉に、大人の魅力を感じたのは、このときが最初だったような気がする。
そして、「水着の跡」で表現された女性の美しさに憧れを抱いたのも。
僕らはこうして背伸びをしながら、少しずつ大人の仲間入りをしているように錯覚していたのだろう。

「僕らにはできなかった 大人の恋はどうしても」というフレーズで歌は終わっていた。
「大人の恋ができなかった」という言葉に、むしろ、僕らは大人の世界を感じた。
いつかどこかで、大人との境界線が訪れるのだろうと無暗に信じて。

あれから、長い年月が過ぎ、みんな大人になっていった。
夕立に濡れたり、虹を探したり、水着の跡の残る体を抱きしめたりしながら。
だけど、大人との境界線がどこにあったのか、今ではもう分からないような気がする。


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by kels | 2013-08-27 19:15 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)

今の僕には「LOMOで写真を撮る」行為が必要なのかもしれない

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日々の雑事みたいなことに追われて、なかなか集中して写真を撮る日というのがない。
街スナップというのは、やはり、どれだけ街を歩いたかが勝負になるところもあるから、街を歩かなければ、何も始まらないのだ。
そう分かっていても、持ち時間というものには限りがあるから、人は自分の持ち時間との折り合いを付けながら、うまく自分の趣味と向き合っていくことが必要だ。

以前みたいに、週末ごとに数百枚単位の写真を撮っていた頃と違って、最近は限られた時間に、せいぜい数十枚の写真を撮るくらい。
フィルムで撮ったところで2、3本くらいのもので、あまりデジカメのメリットを生かしきれていない。
そう考えると、なんだか無性にフィルムカメラで写真を撮りたくなってきた。

気持ちを引き締めるために、今のデジカメスタイルに集中してきたつもりだけれど、フィルム回帰というのは、多くの人の中にある潜在的な欲求なのではないだろうか。
「フィルムカメラで写真を撮る」という行為には、単に「写真を撮る行為」に留まらない何かが含まれているような気がする。

自分の撮った昔の写真を眺めているうちに、自分が今使いたいカメラは、LOMO LC-Aだと思った。
所詮はオモチャみたいなカメラなんだろうけれど、このカメラで撮った写真は、やっぱり他のカメラで撮った写真とは、何かが違うような気がする。
これは理屈ではなくて、写真を撮っているうちに培われる勘みたいなものだ。

別に、だから、LOMOが素晴らしいカメラだとかそういうことではなくて、ある種の人々にとって、このカメラは特別なカメラとなり得る、ということだと思う。
どうして、あんなにたくさんの人々が、この古いLOMOを使い続けているのか。
その理由が分かった人は、やっぱり幸せな人々なんだろうな。

今の僕には、「写真を撮る行為」ではなく、「LOMOで写真を撮る」行為が必要なのかもしれない。
理屈とか計算とか駆け引きみたいな写真ではなくて、感性とか予感とか気持ちなんかで撮るような写真。
きっと、今の僕が撮りたいのは、上手な写真ではなくて、素直な写真なのだ。

24枚撮りのフィルムを一本詰めて、小さな旅に出てみようか。
そうすることで、新しい何かが開けるかもしれないし、昔の自分に出会えるかもしれない。
これからの季節というのは、そんな小さな旅にはぴったりの季節なんだから。


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by kels | 2013-08-26 22:08 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(2)

新しい時代のチープシックは、あちこちで始まりつつあるのかもしれない

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今月の「ポパイ」で思い出したけれど、その「ポパイ9月号」の特集『チープシックを知ってるかい?』は、とても面白い記事だった。
まさか、2013年になって、『チープシック』に光が当たるなんて、誰も考えていなかったんじゃないだろうか。
これは、きっとうれしい誤算というやつなんだろうな。

当たり前だけれど、僕はリアルタイムで『チープシック』を読んだ世代ではない。
ただ、1960年代や1970年代の文化・風俗が好きだったことや、この本の翻訳者である片岡義男がとても好きだったこともあって、高校生の頃には、このあたりの本をいろいろと読み漁った。
バブルくらいまでの日本にとって、アメリカ文化の与える影響というのは、本当に大きかったような気がする。

特に、60年代から70年代にかけての、ヒッピーやバックパッカーたちが持つ精神論的ライフスタイルの提唱みたいなやつには、ずいぶんと影響を受けた。
それが、今の自分に何か反映されているかと問われると、その答えはなかなか難しいけれど。
若い頃というのは、新しい価値観みたいなものに、何かと影響されやすいものなのだ。

当時は、バブル景気の真っ只中で、ヒッピーだのバックパッカーだのみたいな古臭い価値観なんて欠片もなくて、そんな時代だからこそ、僕は、こうした古臭い価値観に溢れた本を喜んで読んでいたのではないかと思う。
世の中の流れに乗っていきたい一方で、世の中に逆らいたい気持ちがある。
それが、若い世代の特徴であり、特権でもあった。

2013年の今、「ポパイ」の特集を読みながら、『チープシック』は、いつの間にか時代の流れに逆行するカルチャーではなくなってしまったのだと、改めて気付かされた。
それを回帰と呼ぶのかどうか分からないけれど、世の中は少しずつチープでシックな方向へと軸を変えつつあるらしい。
あるいは、それは地球の自転みたいに、少し傾きながらクルクルと回り続けているだけなのかもしれないけれど。

まあ、そんな個人的な感慨はともかくとして、古い基礎知識なく読んでも十分に楽しめる内容になっていたのが、この特集のすごいところだと思う。
チープシックを新しいカルチャーとして受け止めて、新しい展開を起こそうとする世代が現れるのではないかと思えるくらい。
いや、実際に新しい時代のチープシックは、既にあちこちで始まりつつあるのかもしれない。

僕自身にとっては、原点回帰みたいな、このチープシック。
久しぶりに、頭の中をすっきりと洗濯してもらったような、そんな気持ちだ。
忘れてはいけないものっていうのは、これまでにいくつもあったんだよなあ。


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by kels | 2013-08-26 19:43 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)

革靴は、やはり自分で育てていくものなんだろうな

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日曜日の午後、激しい雨が止むのを待ちながら、靴磨きをして過ごした。
靴磨きは、定期的に行わなければならない、生活の中のリズムの一つである。
単調だけれど、靴を磨く行為そのものを楽しもうと思えば、決して苦痛ではない。

そもそも、それほどたくさんの革靴を持っているわけではない。
今のところ、ビジネス用に使っている黒い革靴は5足で、これを毎日ローテーションして履いている。
休日用には、茶色を中心に同じく5足で、こちらは気分次第で履きたい靴を選んでいる。

最近人気のいわゆる高級靴などと呼ばれるものは一足もなく、すべてが庶民派のものばかりである。
ブランドでいえば、リーガルとマレリーが圧倒的に多く、その他外国製のものが少々。
いずれも、一般のビジネスマンが普通に購入できる程度のものでしかない。

街で高級靴を見かけると、やっぱり欲しいなあと思いつつも、これまでに購入する機会はなかった。
骨董品やカメラを買うのを止めれば、きちんとした靴くらい買えないこともないと思うのだけれど、どういうわけか、生活に役立たないような、どうでもいいものばかり選んでしまう。
どちらかというと、本人的にもそれで後悔することが多いのだけれど。

ただ、靴に関しては、高級なものよりも、長く履き続けられるものを持ちたいという気持ちが強い。
一足の靴を大切に修理しながら、一生履き続けていくという、そんなイメージ。
「大切なもの」っていうのは、決して値段だけでは決められないような気がするなあ。

靴を履き続けるといえば、今月の「ポパイ」で、チャールズ皇太子の靴は、40年以上履き続けられているという記事を読んだ。
ボロボロのツギハギだらけの靴なんだけれど、これがすごくカッコイイ。
すごいと思ったし、この靴ほしいと思った(笑)

もっとも、革靴の場合は、持ち主の個性がはっきりと付いていくから、誰かが何十年も履いた靴をもらったところで、自分で履くことは難しいのかもしれない。
革靴は、やはり自分で育てていくものなんだろうな。
どうせ革靴を持つのだったら、そのくらいの愛情を持って履き続けたいものだと思う。

中途半端な値段の靴の場合、修理するより新しく買った方がお得かもなんて考えたりして、結局、履き潰してしまうことも多い。
高級靴だったら、大切に修理しながら、死ぬまで履き続けたりするのだろうか。
うーん、やっぱり一足くらいはほしいなあ、一生ものの靴。

もっとも、高級とは言えないにしても、自分の靴はやはり大切にしたいもの。
修理するかしないかというのは、値段で決めるものではなくて、靴と自分との信頼関係で決まるような気がする。
靴からも信頼されるような持ち主でありたいと、いつも思っているんだけれど。


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by kels | 2013-08-25 23:14 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)

もしかして、これが夏の終わりを告げる雨なのだろうかと思った

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雷雨が過ぎ去ったのを見計らって外出した。
最近の天候不順は、北海道はあまり見られない現象だ。
一日の間に、何度も青空と雷雨を繰り返しているんだから、出かける方はとても油断できない。

何となく空が信用できないような気がして、あまり長い距離を歩くことのないように気を付けた。
せっかくの週末だというのに、写真散歩も安心して楽しむことができない。
カメラ持ってるときに、あんなスコールが襲ってきたら、まさしく悲劇だろうなあ。

結局、今日は夜までの一日、雨が降ったり止んだりの繰り返し。
激しい雨を眺めながら、もしかして、これが夏の終わりを告げる雨なのだろうかと思った。


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by kels | 2013-08-25 22:43 | 旧・札幌日和下駄 | Comments(0)