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ガラスを集め始めた頃、その正体へのこだわりが強かった

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ガラスを集め始めた頃、その正体へのこだわりが強かった。

どこの国のものなのか。
いつの時代のものなのか。
何のために製造され、使用されたものなのか。

正体不明のものには、できるだけ手を付けなかった。
だから、買い物をするときには、とにかくいろいろなことを店主に訊ねた。
曖昧な部分があるとき、僕は買い物を躊躇し、時には買い物をあきらめた。

今にして思うと、あれは自分自身に自信がなかったためではなかっただろうか。
なにしろ、骨董やアンティークのことなんて、何も知らない初心者である。
つまらないものを買いたくないという不安が、僕をあれほどまでに慎重にさせていたような気がする。

実際、骨董屋には、正体不明のものは正体不明のままに売ろうとする人も少なくない。
自分の専門外のものについては、あまり詳しく訊ねてほしくないというのも本音だろう。
「なんだっていいじゃない、自分が気に入ったものだったら」などと断言する店主さえいたくらいだ。

そういう店主の勧めで買い物をした結果、実は不本意な買い物だったということも、何度か経験した。
古いと思ったものが、実は最近の観光地のお土産品だったり、日本製だと思ったものが、実はアジアで製造された粗悪品だったり。
結局のところ、自分自身で勉強をして、正体を解き明かしていくことが、僕にとってはもっとも安全で確実な方法であるように思えた。

何年かそうやって買い物をしていくうち、少しずつ古いガラスのことを覚えていった。
時代の区別を何となく覚え、和ガラスかどうかを何となく区別できるようになった。
時には、業者の人の言うことが間違っていると分かることもあった。

ある程度、経験や知識が付いてくると、逆に、僕は正体にこだわりを持つことが少なくなった。
詳細不明であっても、直感だけでガラスを買うことができるようになってきたのだ。
少なくとも、僕が買うべきものか、そうではないのか、そのくらいは判断できるようになってきたということだろう。

最近は、正体不明のものこそ楽しくておもしろいと思えるようになった。
時代を経たものの持つ趣きこそが、僕の求めているものであり、それ以外は予備的な知識にすぎなかった。
ちなみに、正体不明ということで、ことのほか格安の金額で商品を入手できることもある。

写真は、透明感のある青い色に惹かれて購入したガラス瓶だが、詳しいことは分からない。
おそらく、薬品系の用途で用いられたのではないかと思うが、青色の輝きだけで充分で、他に説明はなくてもいい。
現代のアイテムとしては、なかなかありそうで見つからないガラスの小さな器である。





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by kels | 2013-06-30 20:08 | 雑貨・アンティーク | Comments(0)

「あー、もう一度、高校生に戻りたいね」と、誰かが言った

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日曜午後の地下鉄は、大学生らしき女性たちで混雑していた。
リクルートスーツ姿の人も多く、どうやら、どこかの就職試験を受けた帰り道らしい。
試験会場が高校だったらしく、しきりに高校時代の話で盛り上がっている。

「あー、もう一度、高校生に戻りたいね」と、誰かが言った。
そんなものかなと、僕は思った。
そのうちに、戻れるのだったら、高校時代でも大学時代でも新入社員の時代でさえも良いと思うようになるだろう。

地下鉄を降りて、とても良く晴れた青空の下に出た時、僕は不意に高校時代の一瞬を思い出した。
あれは、高校3年生のときの夏のことではなかっただろうか。
僕は、模試か何かを受けるために、日曜日の学校へと登校していたのだ。

あの日も、今日と同じように、良く晴れた青空の一日だった。
窓際の席に座って、僕は模試と格闘していた。
妙に静まり返った教室の中で、クラスメートたちが鉛筆を走らせる音だけが響き渡っていた。

とても暑い午後だった。
グラウンドで必死に練習している野球部の連中の声が、教室の中にまで届いた。
金属バットがボールを打つ響きが、何度も何度も繰り返されていた。

苦手な科目では、試験時間を持て余した。
半ば投げやりな気持ちになって、僕はぼんやりと問題用紙を眺めていた。
時々、試験監督の先生が、僕の机の横をゆっくりと通り過ぎた。

日差しが眩しいから、教室の窓はカーテンで閉ざされていた。
カーテンは、開け放たれた窓から吹き込んでくる風で、時々ふわりと揺れた。
隣の席の女子は、しきりにハンカチで額の汗を拭いた。

時折、ヘリコプターが頭上を舞う音が聞こえた。
どういうわけか、晴れた夏の午後には、ヘリコプターが街の空を飛んだ。
遠い工事現場の音が、それにまぎれるように聞こえることもあった。

とても暑くて、とても静かな夏の午後。
試験監督は窓の外を眺めながら大きな欠伸をし、隣の女子はしきりに汗を拭き続けている。
そして僕は、将来のことを漠然と考えていたように思う。

覚えているのは、ただそれだけ。
模擬試験が始まる前のことも、終わった後のことも、何もない。
ただ、試験を受けていた、あの暑さと静寂だけが、今も僕の中のどこかに静かに記憶されているらしい。

試験を受けてきた彼女たちも、今日の日曜日のことを、いつまでも覚えているのだろうか。
とても良く晴れた青空の下で、懐かしき高校の教室で試験を受けた日曜日のことを。
誰かとそんな話をしたいと思ったけれど、相変わらず僕は一人で、そして、そんな話は誰にも意味のない話題だった。


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by kels | 2013-06-30 19:39 | Snap Short Stories | Comments(0)

夏の太陽の光の中に、頑張っていたはずの幼い頃の自分の姿が見える

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コンビニ本というのがある。
長期連載されている人気漫画を、テーマ別に再編集して、コンビニで販売しているやつである。
テーマ別に編集されていることで、気持ちを込めて読みやすいから、オリジナルコミックを持っているものでも、ついつい買ってしまうことになる。
西岸良平の「三丁目の夕日」もそのパターンで、オリジナルと同時にコンビニ本も買っているから、漫画の量が半端じゃない(笑)

写真は、コンビニ本の「夏休み」。
タイトルどおり、夏休みにまつわる話を集めた一冊なので、本の端々にまで夏が詰め込まれている。
こういうふうに季節感を前面に出したストーリーというのは、たとえ漫画であっても情緒性豊かで、癒されるものである。

旅終へてよりB面の夏休 黛まどか

「三丁目の夕日」のような漫画の場合、特に作者も季節感を大切にしてテーマを選んでいるだろうから、夏らしさを感じたいときの息抜きに、こういったコミック本はとても重宝している。
話題も、通信簿、海水浴、夏座敷、風鈴、ボーイスカウト(キャンプ)、植物標本など、子どもの夏休みには欠かせないものがズラリと並ぶ。
大人になってみれば、忘れかけていたようなテーマが現れるのも、こういった漫画の魅力の一つだ。

黒板にわが文字のこす夏休み 福永耕二

この漫画の良さは、子どもたちのさりげない日常生活を描きながらも、大人の切なさや勇気を暗に示しているところにある。
例えば、「宿題」という話では、夏休みの終わりになって、宿題の終わっていない少年が、いつでも両親に宿題を手伝ってもらうという話である。
やがて、少年は大人になり、子どもを持つ父親となった。

夏休みの終わりになって、宿題の終わっていない子どもたちを眺めながら、父親は苦笑いをしている。
一方で、彼自身も、会社から持ち帰った仕事や、英会話教室やパソコンなど、社会人ゆえの「宿題」に追われ続けている。
子どもの頃からの持病だった神経性胃炎が、時々彼を苦しめている。

しかし、子どもの頃のように、彼の宿題を助けてくれる父や母はもういない。
彼は、自分自身でやるしかないのだということをきちんと理解し、「がんばらなくちゃ」とつぶやく。
そう、大人になれば、誰だって自分自身の力で道を切り開いていかなければならないのだ。

考えてみると、大人が頑張れる要素の一つには、子どもの頃の思い出があるような気がする。
何か辛いことや悲しいことがあったとき、昔の記憶を呼び起こすことで、意外と乗り切れる瞬間があったりするものだ。
それは、父であり、母であり、兄弟姉妹であり、幼友達であり、好きだった女の子のことかもしれない。

表面的にはノスタルジーをなぞりつつも、「三丁目の夕日」は、ちゃんとした大人への応援歌になっている。
少年や少女たちの台詞は、大人たちに忘れていた何かを思い出させてくれる。
明日も頑張ろう、もう少しだけ頑張ってみようという小さな勇気を、この漫画は持たせてくれる。

夏の眩しい太陽の光の中には、あの頃だって頑張っていたはずの、幼い頃の自分の姿が見えるかのようだ。

いつの間に母らしきわれ夏休 星野立子




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by kels | 2013-06-29 23:42 | 夏のこと | Comments(0)

僕のスナップ写真の哲学は、とにかくたくさん歩き回るということである

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快晴の午後、久しぶりに大通公園を歩いた。
最近は天気が悪いと、満足に散策もしていない。
週末に天候が悪いと、何週間も散策しないことにもなりかねない。

それだけに、天気の良い週末には、できるだけ歩きたいと思う。
もちろん、自分の好きな写真を撮るにも、天候はとても重要だ。
光と影が生み出すコンラストを探して、あちこち歩き回る。

さすがの札幌も、6月下旬ともなれば、夏らしさが満ち始めている。
芝生やベンチの上で寝転がって、太陽の光をたっぷりと浴びている人たちもいる。
短い北国の夏だからこそ、人々は今この瞬間を全力で楽しんでいるのだろう。

活動する人々が多いと、スナップ写真は、より楽しいものになる。
ショーウィンドゥばかりではなく、人々の生きる姿を撮りたいと思うようになる。
できれば、札幌らしい風景を撮りたいと思うようになる。

僕のスナップ写真の哲学は、とにかくたくさん歩き回るということである。
写真が上手なわけではないし、撮影センスがあるわけでもないから、とにかくたくさん歩き回って、何かおもしろい光景はないかと探し回ることしかできない。
一日歩き回って、自分が納得できる写真を一枚撮ることができれば、その日は成功だったと思う。

経験的に、自分が納得できる写真というのは、晴れた日に撮れることが多いような気がする。
だから、晴れの日に、僕はできるだけたくさん歩くように努めている。
いつもよりもずっと気になるものが見つかって、撮りたいと思う瞬間が多いはずだ。

あちこちで、イベントが開催されている夏の大通公園は、まさしくスナップ写真の撮影スポットである。
実際、カメラを持った人たちと、何度も何度もすれ違う。
どれだけたくさんの写真家がいたとしても、同じ写真は一枚とないだろうけれど。

遠くから撮るよりも、僕はできるだけ近くで撮りたい。
周りの人たちと同じ空気を吸って、同じ太陽の光を感じながら、シャッターを切りたい。
写りこんではいないけれど、僕もその写真の中にいるのだ、確かに。

そういう意味で、昔のスナップ写真の名手たちの写真は、確かに街の中に溶け込んでいる。
見えないけれど、その写真を撮った写真家の存在が、一枚一枚の写真の中に確かに感じることができる。
瞬間を切り取るということは、きっとそういうことなのだろう。

今日も僕は、青空の下の大通公園を歩きまわり、いくつかの心惹かれる光景に出会った。
出会いは一瞬であり、時間はたちまち過ぎ去り、風景は新しい風景へと移り変わっていく。
僕は、移り行く時間の一瞬を、うまく切り取ることができただろうか。


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by kels | 2013-06-29 21:56 | 写真・カメラ | Comments(2)

札幌は今「ハマナス」の花の季節を迎えている

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札幌は今「ハマナス」の花の季節を迎えている。
子どもの頃、「ハマナス」なんていうと、オホーツク海の砂浜にしか咲かないものだと思っていた。
自分の街にもあったはずなのに、「ハマナス」という言葉の響きの中に、遠い海辺の町への憧れを込めていたのかもしれない。

玫瑰を噛めば酸かりし何を恋ふ 加藤楸邨

ハマナスの赤い花は、気を付けていなくても、目に飛び込んでくる。
だから、札幌の街の中でもたくさん咲いているところを見つけることができる。
北の街に、ハマナスの赤い花はとてもよく似あうものらしい。

搾乳夫来て玫瑰にひざまづく 堀口星眠

松山千春の古いフォークソングに「ハマナス」という曲があった。

赤く燃え咲くはまなすを
望んではるかオホーツク
長き旅路のさい果てに
風は冷たく吹き荒れる

「はまなす」松山千春(1982年)

こういう歌を聴くと、ハマナスというのは、やはりオホーツク海にこそ似合うような気もしてくるが。

玫瑰や今も沖には未来あり 中村草田男

遠く本州以南からやってくる旅行者にとっては、札幌もオホーツクも、あまり変わらないかもしれない。
旅人は、ハマナスの赤い花を見つけることで、北国への旅情を募らせているのだろうか。
もっとも、いかにもな群生を見るには、やはり浜辺に行く必要があるだろう。

はまなすの花全開に海の色 佐々木文子

ちなみにハマナスは、「北海道の花」として指定されている。
そのため、道内では、このハマナスをモチーフにした商品も少なくない。
この時期、北海道を旅することがあるなら、せっかくだからハマナスの赤い花を楽しんでみてはいかがだろうか。

玫瑰の丘をあとにし旅つづく 高浜虚子



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by kels | 2013-06-29 06:28 | 夏のこと | Comments(0)

真新しいワイシャツの箱を開けるときというのは胸踊るものだ

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一年中白いワイシャツを着ているビジネスマンには分かりにくいかもしれないけれど、俳句の世界で「白い服」というと、夏を表す季語になる。
太陽の強い日差しを反射する白色の服は、見た目にも涼やかなのだ。
「夏服」と包括的に言ってしまうよりも、「白服」と言った方が伝わるニュアンスも具体的だ。

白服のよごれや愛を疑はず 佐藤鬼房

そうやって考えてみると、ビジネスマンの白いワイシャツというのも、夏には爽やかな印象を与える。
最近は「クールビズスタイル」が定着したけれど、白いワイシャツは、そもそも爽やかでクールなものなのだ。
何でもかんでもカジュアル化して、ラフになればいいというものでもない。

白服や巡査折り目を正しうす 日野草城

僕の場合、真夏でもできるだけ長袖のオーソドックスなシャツを着ていたい。
着慣れているから楽だし、ネクタイがないというだけで、かなり涼しいものだ。
もっとも、ネクタイをしない場合、シャツをボタンダウンシャツにする必要があるけれど。

顔はまだ見えず真白の服の人来る 篠原梵

僕のように、年中ボタンダウンしか着用しない人の場合には、特に問題はないと思う。
きちんとしたオックスフォードのボタンダウンシャツというのは、オンでもオフでも着ていたいと思わせてくれる。
カジュアルでも着こなせるからこそ、クールビズにも登場してくるのだろう。

通る電車白シャツぎつしり充ちて過ぐ 山口誓子

真新しいワイシャツの箱を開けるときというのは、いくつになっても胸踊るものである。
真っ白いシャツが、きちんと折り畳まれている姿を見ると、遠い郷愁や未来の希望みたいなものを一瞬感じる。
まるで、幼い子供が新しいオモチャの箱を開けた瞬間みたいに。

白シャツを汚さじと着て農夫老ゆ 細身綾子



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by kels | 2013-06-27 21:06 | 夏のこと | Comments(4)

セクシー美女が、大きな金魚鉢の前にひざまずいて微笑んでいる

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アメリカの古いピンナップを復刻したポストカード。
セクシー美女が、大きな金魚鉢の前にひざまずいて微笑んでいる。
金魚鉢の中には、赤い金魚が2匹。

へー、アメリカにも金魚鉢があったんだ。
そういえば、「トムとジェリー」の古いアニメにも、金魚鉢が登場していたかも。
金魚というのは、世界中どこでも似たような鑑賞をしているのだろうか。

そんなことを考えているときに、僕は突然思い出した。
自分がかつては金魚鉢のコレクターであったことを。

古いものを集め始めた頃、僕は最初にガラス製品に夢中になった。
その対象として、金魚鉢もリストに入っていた。
夏を感じさせるガラス製品「金魚鉢」は、僕のストライクゾーンど真ん中だったわけだ。

それなりの時間と手間をかけて、僕は古い金魚鉢をあちこちで集めて回った。
明治時代、大正時代、昭和初期くらいまでの金魚鉢が、少しずつ集まってきた。
本当に古くて美しい金魚鉢というのは、それほど簡単には見つからなかったのだ。

古い金魚鉢といっても、いろいろなデザインのものがあった。
縁が赤色や青色のヒラヒラとしたフリル型になっている、いわゆるアサガオのものが多かった。
ほとんど飾り気のない水槽みたいな金魚鉢もあった。

もっとも、コレクションが充実してくるにつれて、僕は集めた金魚鉢を持て余すようになった。
金魚を飼うための器だから、金魚鉢というのは、それなりの大きさであり、それなりの面積を取る。
特に、アサガオ型のものは非効率的に空間を占有して、いつの間にか収納しきれなくなってしまったのだ。

一時期は、窓際に金魚鉢をいくつも並べて、金魚ばかり飼っていたこともある。
金魚はとても長生きをして、どんどん大きく成長していった。
けれど、上蓋のない金魚鉢の場合、金魚が鉢の外まで飛び跳ねて死んでしまう事故が多かった。

やがて、金魚が少なくなっていくのに合わせて、僕は金魚鉢を少しずつ処分した。
骨董屋へ下取りに出すこともあれば、ネットオークションで売り飛ばしたこともある。
ほとんどは、古くて美しいものばかりだったから、そこそこ元値くらいにはなったのではないだろうか。

今も、僕の部屋には、当時集めたものが、まだ少しは残っているかもしれない。
金魚を飼うことは、もうないかもしれないけれど。

アメリカの古いピンナップの中の金魚鉢は、そんな僕の心の琴線を鳴らしている。
「アメリカ」の「古い」「ピンナップの中にある」「ガラスの金魚鉢」。
未だ出会ったことのないものに対する憧れというのは、いつまでも終わることがないらしい。


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by kels | 2013-06-26 21:24 | 夏のこと | Comments(0)

写真家は傍観者のようなものだと、僕は思う

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季節のイベントが多い季節になった。
たくさんの人が集まり、賑やかな空気が満ち足りるところに、アマチュアカメラマンあり。
どのイベント会場へ出かけて行っても、大きなカメラを持った人たちの姿が目立つ。

デジカメの普及のためか、大きなカメラやレンズを持った人の姿が多い。
人混みの中で、大きな望遠レンズを付けたカメラを持った人を見ると、一体何を撮るのだろうかと、ちょっと気になる。
自分は50mmの標準レンズさえ持て余しているというのに。

時々、ハッとするのは、その大きなカメラを突然、他人に向けてシャッターを切っている人たち。
近くで見ていてハラハラするほど、至近距離でシャッターを切り続けている。
こういう人は、もうアマチュアではなくプロの領域なのかもしれない。

そう思って見ていると、こういう撮り方をするのは年配の人に多いようだ。
それにしても、一声もかけることなく、至近距離での撮影というのは、つくづく凄いなあと思う。
今の時代、何が起こっても不思議ではない状況だ(笑)

自分はというと、そこまでの度胸もないから、ほどほどに離れたところでカメラを構えている。
そもそも、人物のアップを撮る場面はないから、周囲の風景が入るくらいの距離がいい。
風景の中に人があってこそのスナップ写真だと思っている。

といって、見つからないように隠れてこっそり撮るというほどの度胸もない。
写真を撮っていることは、周りの誰から見ても分かるように、きちんとカメラを構えている。
何を撮っているのだろうと、不思議そうに通り過ぎていく人たちも多いくらいだ。

なんだかんだ言っても、スナップ写真を撮ることが難しい時代になったらしい。
昔のことを知っているわけではないから、そう推測するしかない。
ベテランの人たちが、みんな言っているから、きっと、そうなのだろう。

もっとも、だからと言って、スナップ写真を撮りにくい時代だと思ったことは、多分ない。
昔を知らないから、今の時代のスナップ写真の撮り方しか知らないのだ、きっと。
少なくとも、道行く人に突然カメラを向けてシャッターを切ったりするような写真の撮り方は知らない。

結局、写真家というのは、謙虚に、目立たず、風景の中に溶け込んで、静かにシャッターを切るべきなのだろう。
写真を撮ることに夢中になると、周囲の迷惑も顧みずに自己本位の行動を取る人というのもいるらしい。
こういう行動は、スナップ写真の可能性をどんどん削っていっているとしかいえない。

写真家は傍観者のようなものだと、僕は思う。
街の主役でもなければ、街の背景でもない。
ただ、そこにいてカメラを構えてシャッターを切るだけの、一人の傍観者にすぎないのだ。

これから、いよいよ街中でのイベントが多くなっていく季節になる。
カメラを持って街に出よう。
そして、活動している街に向かって、無言のシャッターを切り続けるのだ。

まるで傍観者のように。


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by kels | 2013-06-25 22:37 | 写真・カメラ | Comments(0)

夏がビーチボーイズを呼んでいるし、ビーチボーイズが夏を招いている

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夏だからビーチボーイズ。
そういうマニュアル的な音楽の聴き方は、もうやめよう。
そう思った。

今は古い伝説に縛られて音楽を聴く時代ではない。
自分の好きなものを、好きなように、好きな季節に聴く。
それが、現代的な音楽の聴き様というものなのだ。

そう考えると、気持ちがなんだか楽になる。
みんなと同じでなければならないという呪縛から解き放たれた瞬間。
そうだ、音楽くらいは自分の好きなものを好きなように聴こう。

もちろん、だからといって、僕はビーチボーイズを否定するわけではない。
自分の好きなときに聴けばいい。
ただ、それだけのことだ。

そして、僕は久しぶりにビーチボーイズのCDを取り出してみる。
1965年に発売された「サマー・デイズ」。
自分の生まれる前に作られた音楽を、僕たちは手軽にいつでも楽しむことができる。

ビーチボーイズは、いつだってご機嫌だ。
CDのビーチボーイズに合わせて、「ヘルプ・ミー・ロンダ」を口ずさむ。
やがて、「カリフォルニア・ガールズ」が流れる頃、気分はすっかり真夏だった。

ウエストコーストには太陽があり
女の子はみんな小麦色
ハワイ島の砂浜のヤシの木陰じゃ
フレンチビキニを拝むのさ
僕はこの広い世界を回り
あらゆるタイプの女の子に会ってきた
でも アメリカに帰って
世界一キュートな娘たちに会うのが待ちきれないよ
みんなカリフォルニアに来てくれりゃいいのに
みんなカリフォルニアに来てくれりゃいいのに
みんなカリフォルニア・ガールズになってほしいのさ

「カリフォルニア・ガール」ビーチボーイズ(1965年)

最後の曲が終わるとき、僕はようやく気が付いた。
ビーチボーイズが夏を運んできてくれるんだっていうことに。
ビーチボーイズは、夏そのものであり、ビーチボーイズこそが夏なのだ。

それは、古い掟でも呪縛でも伝説でもなかった。
誰かが決めたことだから、僕らはビーチボーイズを聴くのではない。
夏がビーチボーイズを呼んでいるし、ビーチボーイズが夏を招いている。

結局、いつもの夏と同じように、相変わらず僕はビーチボーイズを聴き続けている。





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by kels | 2013-06-25 21:06 | 夏のこと | Comments(0)

小さなヒマワリを飾っただけで、部屋の中に夏が訪れたような雰囲気になった

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週末、「花と雑貨ひととき」を訪ねて、ヒマワリの花を買ってきた。
小さなヒマワリを飾っただけで、部屋の中に夏が訪れたような雰囲気になった。
花っていいなと、ちょっと思う。

特別に人一倍、花が好きだというわけじゃない。
けれど、人並みには花を愛でたいと思う気持ちがある。
美しい花を見ることで、気持ちが癒されるなあと感じることができる。

花を飾ることは、別に高尚な理由じゃなくていいと思う。
身近に自然を感じていたいから、部屋の中に生きた花を飾る。
花の色や匂いがあるだけで、肉体の中のネイチャーを求める部分が満たされるときもあるだろう。

僕が花を飾りたいと思うときは、やっぱり季節感を全身で感じたいときなのだと思う。
だからこそ、季節の先取りをするようにして、季節の花で部屋の中を飾ろうとするのだ。
本格的な真夏がやってくる前に飾った、ヒマワリの黄色い花のように。

花は、高価なものでなくとも、気持ちを落ち着かせてくれる。
一本の缶ビールを我慢して、ヒマワリの花を買って帰る夕暮れ。
気持ちの良い季節には、そんな一日があってもいい。


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by kels | 2013-06-24 22:41 | 夏のこと | Comments(0)