<   2010年 09月 ( 56 )   > この月の画像一覧

ハーフ

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この間、いつもの写真屋へできあがったプリント写真を受け取りに行ったら、カウンターの上に郵送プリントの依頼票が置かれていて、なにげなく見たら、使用カメラがオリンパスペンFとあった。
代金を支払いながら、「そう言えば、ハーフサイズカメラもしばらく使っていないなあ」と、思わずこぼすと、「僕もそうなんですよね」と笑う。
「一時期は夢中になるんですけれどね。いつの間にか使わなくなっちゃって」

そういえば、と思い出す。
「そういえば、古い二眼レフカメラのローライコードを使い始めてから、ハーフの出番も減ったかもしれない」
「画質の良い写真を見ちゃうと、もう戻れないんですよね」
あるいは、そうなのかもしれない。

いろいろな意味で、不完全さが個性でもある、昭和時代の古いハーフサイズカメラだから、完璧な画質をそこに求めることはない。
むしろ、緩やかな描写の中に求めるノスタルジーこそが、ハーフカメラの最大の魅力なのだ。
最近は、戦前の二眼レフカメラ・ローライコードか、高度成長期の一眼レフカメラ・OM-2が、僕のもっとも良き仲間だ。
それは、どこかできちんと写真を撮りたいと思う気持ちの表れだったのだろうか。

週末には、久しぶりにペンFを持って街に出よう。
秋の始まった札幌の街を、昭和時代の古いハーフサイズカメラで撮り歩いてみよう。
不完全なカメラだからこそ見えてくるものが、きっとあるはずなのだ。


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by kels | 2010-09-30 22:14 | 写真・カメラ | Comments(4)

切手アルバム

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古道具屋で、古いストックブックに出会うことがある。
昭和30年代から40年代にかけての切手ブームの中、当時の少年が集めたのだろう切手が中には収められている。
もちろん、さして貴重な切手が入っているはずはない。
使用済みの普通切手や、当時、最新発売だった記念切手などが、大きな空白を作りながら並んでいる場合がほとんどだ。
ストックプックの裏表紙には、少年の氏名がマジックで書かれていることもある。

およそ、切手蒐集にとってはあまり意味のないこのようなストックブックが、僕は好きだ。
ひとつの時代に生きた一人の少年の軌跡が、そこにはきちんと並んでいる。
使用済みの普通切手1枚でさえ、少年は夢や憧れを持って、封筒から切り取り、水で濡らして剥がし取ったのであろう。
少しずつ増えていく切手の数に、少年の中の収集欲は、夢や憧れと同じように膨らんでいったかもしれない。

やがて、高校受験や大学受験の年齢となり、折からの「受験戦争」に飲み込まれ、少年は切手集めのことを忘れていく。
少年の時代に温めていた彼の夢は、少年時代のままでストックブックの中に取り残される。
恋人ができ、やがて結婚をして家を出た彼が、部屋に残してきたストックブックのことを思い出すことはない。

昭和30年代のままページが途切れたストックブックは、そんな物語を僕に思い起こさせる。
それは、どんな作りものの物語にもない、切ないくらいにリアリティに満ちた、少年の物語だ。
埃を被ったストックブックを抱えて、僕は古道具屋を出る。
少年の物語の続きを繋ごうなどと思うことはない。
少年の夢や憧れは、当時のままで、ストックブックの中に留められていれば良い。


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by kels | 2010-09-29 19:47 | 雑貨・アンティーク | Comments(2)

中国

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この週末、街には中国人観光客が少なかったような気がする。
いつもであれば、狸小路を中心とした観光スポットには、明らかにそれと分かる中国人観光客の一団がいて、土産物店などでは賑やかな行列を見せているのだけれど、この週末にはそのような光景は見かけなかった。
時間の具合ということもあるかもしれないが、かえって西洋の夫婦と思しき観光客の一群が目立ったほどである。

尖閣諸島の事件と関わりがあるのかどうか分からない。
駅前通りでは、右翼の街宣車が日本政府の今回の対応への批判を繰り返す演説を繰り広げていた。
演説の周囲には鋭い眼光の男たちがずらりと並んでいて、一帯は言いしれぬ重い空気を漂わせていた。
さすがの自分も、カメラで撮影する気持ちになれなかったほどである。

北海道経済における中国への依存度は、明らかに増加傾向にある。
それが直接目に見えてくるのが観光業界だ。
対日制裁の効果が、そんなに早く現れるものなのか知らないけれど、今回の事件によって、北海道の観光業界が受ける損害はおそらく少なくないものになるだろう。
外交の難しい国を相手とした観光政策を掲げている以上、こうしたリスクは最初から分かっていたものだし、今後もつきまとい続けるものでもあろう。
北海道観光のあり方というものを見直すには、ひとつの機会となっているような気もする。


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by kels | 2010-09-29 19:45 | 随想・日記 | Comments(0)

札幌

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考えてみれば、札幌を出たのも10月半ばのことだった。
定職にも就かず、毎日をフラフラとして暮らしていた僕は、釣り竿とカメラだけを持って札幌のアパートを引き払い、オホーツク海に面した小さな街で、素朴な仕事を見つけた。
とにかく札幌を離れたいのだという気持ちだけが、僕を道北の街へと駆り立てていたように思う。
思えば、あれも9月下旬のことだった。
夏の終わりは、僕に何かの区切りを付けさせたがっているのだろうか。

札幌を離れるというと、友人たちはみなひどく驚いたようだった。
札幌で生活していた数年間、僕は誰かの部屋に入り浸ったり、誰かが僕の部屋へ入り浸ったりして生活していたから、僕が札幌を離れるということに、みんなうまく反応できなかったのだと思う。
半月ほどの間、僕らは毎晩のようにススキノへ出かけて、酒を飲み、昔話をした。
夜更けまで飲み明かし、僕の部屋で雑魚寝したその朝、僕は何人かの仲間たちを起こして釣りに出かけた。
土砂降りの雨の中、一日中ロッドを振り続けた秋の尻別川。
まともな釣りができなくて、それが札幌で暮らしていた僕の、最後の釣りだった。

旅立つ前夜も、僕らはススキノにいた。
札幌で暮らすようになってから、何年もの間、毎日のように顔をつきあわせてきた仲間たち。
みんなまともな仕事に就いていて、僕だけがフラフラしていたけれど、夜になれば楽しく話をすることができた。
最後に弾いて歌ったのは、ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」だった。
翌朝早くに、僕は街を出た。
次に住む街まで、自動車で7時間も走らなければならなかった。


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by kels | 2010-09-29 19:17 | 随想・日記 | Comments(2)

10月

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その年の10月半ばに、僕は長年住み慣れたオホーツク海沿いの小さな街を出た。
突然の引っ越しだった。
その夏、ニジマスやヤマメを釣りまくった僕は、そうした生活にいったん区切りを付けて、街を出ようと思いついたのだった。

9月の末に、札幌から友人たちが遊びにやってきて、僕らは丸瀬布町でキャンプをしながら、武利川で釣りをし、夜にはたき火を囲んで昔話をした。
「いつまでここにいるつもりだ?」
ふと、誰かが言った。
僕は何も答えない。
答えるべき答えが見つからなかった。
いつまでも、そんな生活が続かないだろうということは、僕自身にも良く分かっていたのだ。
「戻るべきときが来たら、きっと戻るのだろう」 と、僕は言った。
誰も、何も言わなかった。
抑揚のないBGMみたいな昔話が、再び始まっただけだった。

友人たちが帰札し、僕はまた街に取り残され、深まる秋の渓谷で、落ち葉を避けながら魚釣りを続けた。
深い夕闇の中で、僕はその日初めてのニジマスを釣り上げた。
冷たい水の中に手を入れて、ニジマスの冷たい魚体に触れたとき、僕の中でひとつの区切りが訪れていた。
「街に戻るべきときだ」と、思った。

小さな街を去るための手続きを、僕は半月かけて終えた。
新たに住むべき街を見つけ、古い街で知り合ったすべての人たちに挨拶をした。
最後の夕方に、僕がしたことは、「カーティス・クリーク」へ挨拶をすることだった。
深い夕闇の中、僕は僕だけの「カーティス・クリーク」に立ち、最後の魚を釣った。
いつかまたこの川で釣りをすることがあるだろうと、僕は思った。
けれども、そのとき僕はただの旅の釣り人にすぎない。
10月の闇がすっかりと訪れた渓谷で、僕は最後の魚をリリースした。


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by kels | 2010-09-28 22:10 | 随想・日記 | Comments(0)

アナ・トレントの鞄

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どこの誰か知らないが、ドーナツの袋に延々と物語を書き継いだ男があった。
まるで新聞の連載小説のように。
推測では全部で258話になるはずだが、現存するものはその半分にも充たない。
男は毎日ドーナツ屋にあらわれ、ドーナツをひとつ注文し、持参した水筒で水を少しずつ飲みながら大切に食べた。
食べ終えると、ちびた鉛筆を取り出し、ドーナツの袋を引き裂いて、そこに物語を綴ってゆく。
二年間続けた。
わずかなお金で空腹を紛らわせ、同時にノート代を節約したのだ。

「アナ・トレントの鞄」クラフト・エヴィング商會(2005)

これ、欲しいなあ。


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by kels | 2010-09-28 22:03 | 雑貨・アンティーク | Comments(4)

匂いガラス

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1986年、「匂いガラス」というドラマがNHKで放送された。
普段ドラマなんかほとんど見ないのに、仙道敦子が主役だからという理由で、何となくテレビを見ていた。
唐十郎の原作だった。
ドラマの中に、こすると良い匂いがするというガラスの破片が出てきて、それが「匂いガラス」だった。
そのときは、何も思わなかった。

数年が過ぎて、そういえばと思った。
あのとき、テレビドラマの中に登場していた「匂いガラス」のことを思い出した。
あの「匂いガラス」は、どこにあるのだろうと。
あの「匂いガラス」は、どんな匂いをさせているのだろうと。
古道具屋を回りながら、「匂いガラス」なるものを探したけれど、今までに見つかることはなかった。

「匂いガラス」は、昭和20年代に少年時代を過ごした人たちにとっての共通体験であるらしい。
その本質は、B29を始めとする戦闘機の防風ガラスで、墜落機の機体などから入手されたものが、露天商などを経て、少年たちの手に入ったと推測される。
どこかの工場で生産されたものではないから、終戦から60年以上が経過している今、あの「匂いガラス」を手に入れることは、おそろしく困難である。

考えてみれば、ただの墜落機の破片だ。
ただ持っているだけでは、おもしろくもないに決まっている。
敗戦直後で、人々がまだ焼け跡の中で生活していた時代、少しの工夫と豊かな知恵で、様々な遊び道具を考えていた人たちが、ガラスの破片の利用を思いついたものだろう。
誰かが、ガラスをこすると良い匂いがすると言い始めた。
「匂いガラス」という都市伝説は、少年少女たちの世界で幻想的な遊び道具として広まっていったのである。

幻想でも良いから、「匂いガラス」を手に入れたい。
その気持ちに変わりはない。
敗戦後の子どもたちがこすり続けたガラスの破片の匂いを、一度でいいから嗅いでみたい。
今や伝説と化した「匂いガラス」を、僕は今も求め続けている。


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by kels | 2010-09-28 21:54 | 随想・日記 | Comments(7)

飛行機雲

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夏が終わって、飛行機雲が盛んに見られるようになった。
秋になったから、飛行機雲が生まれやすいのかどうか知らないけれど、青い秋晴れの空の中、一筋の飛行機雲が真っ白な線を引いていく様子は、いかにも秋らしさを感じさせる風物詩のひとつである。

飛行機雲の写真は、撮れそうでいて、なかなか撮れないもののひとつである。
なにしろ、気象現象だから条件が整わないと、飛行機雲が発生してくれない。
最低でも、青空でなければ、飛行機雲の存在自体が分からない。
次に、ちょうど良いタイミングで、飛行機が飛んでくれないとならない。
青空の中を飛行機が飛んでも、必ず飛行機雲が発生するわけではないから、うまく飛行機区もが発生してくれるのを祈るしかない。
幸運にも飛行機雲が発生したとしても、青空と白い線だけではおもしろくないから、それなりに写真として楽しい場所にいなければならない。
そう考えていくと、飛行機雲の写真を撮るというのは、やっぱり大変なことなのだ。

先日、滝野すずらん丘陵公園へコスモス畑の写真を撮りに行ったときも、青い空を分断するように真っ白い飛行機雲が空を走った。
帰り支度をしていたにも関わらず、再びコスモス畑まで走って戻って、写真を撮り直した。秋晴れ、コスモス、飛行機雲。
爽やかな素材が、札幌の秋をいよいよ爽やかにしているような気がした。


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by kels | 2010-09-27 20:02 | 随想・日記 | Comments(0)

夕焼け

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写真に撮りにくいものと言えば、夕焼けである。
映画や写真集などでは、空一面が真っ赤に染まる夕焼けが頻繁に登場するけれど、札幌の街に関して言うと、美しい夕焼けに遭遇する確率はかなり低い。
「あの日の夕焼けはすごかった」と話題になるくらいだから、いかに普段の夕焼けが少ないかが分かる。

毎日の夕方、札幌で見ることのできるのは夕焼けではなく夕日である。
手稲山から藻岩山にかけての山並みの向こう側に沈んでいく夕日は、それはそれで美しいものだが、赤いのはせいぜい太陽くらいで、周りの空を赤く染めるほどの夕焼けはあまり見られない。
たまに、山の周りが真っ赤に染まることがあり、こうした空を一般的に夕焼けと呼んでいる。

子どもの頃の記憶では、空一面が真っ赤に染まる夕焼けが珍しくなかったような気もする。
山峡の田舎町で暮らしていたという、地理的な条件もあったのだろう。
特に、秋の夕暮れ、燃えるように真っ赤に染まった夕焼け空の中を、恐ろしいほどに無数の赤とんぼが飛んでいた情景は、少年時代の記憶のひとつとしては鮮明なものだ。
あのような夕焼け空を、僕らは毎日でも眺めていたというのは、やはり記憶の美化というものなのだろうけれど、夕焼けらしい夕焼けが見えないことが、札幌の物足りなさという気持ちは、秋になるたび、毎年のように思い起こすのである。


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by kels | 2010-09-27 19:59 | 随想・日記 | Comments(2)

イクラ

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この秋、初めて「いくらの醤油漬け」を作った。
イクラはそれほど好きな食べ物でもないのだけれど、北海道の秋らしさを味わうため、1年に1度くらいはということで、生いくらを買ってきて、自分で醤油漬けを作って食べている。

いくらの醤油漬けを作るとき、どのような方法で卵の粒をほぐすかということが、最大のポイントとなる。
なにしろ、イクラの粒なんて腹の中に無数に入っているものだし、これを一粒一粒ほぐには、かなりの忍耐と根気を要するものなのだ。
もっとも簡単な方法は、お湯に付けながらほぐすというもので、この方法だと簡単に卵がバラバラになるのだけれど、その代償として、イクラの粒が非常に固いものになってしまう。
固いイクラなんて食べられたものじゃないから、自分ではできるだけお湯を使わない。

日本酒を使うとか焼酎を使うとかテニスラケットの編み目でほぐすとか、いろいろな策が伝えられているけれど、結局、自分の場合は塩を溶かした冷たい水で、根気良く一粒一粒をバラバラにするように心がけている。
どうせ1年に1度のことだし、せっかくだったら少しでも美味しいものを食べたいというのが、やっぱり人情なのだ。

昨夜のうちに漬けたイクラは、今朝方には美味しい「イクラの醤油漬け」となっていて、早速、朝食で炊きたての白飯の上にたっぷりと乗せて頂いた。
気のせいかもしれないが、自分で作ったイクラはやっぱり美味しい。
とはいえ、茶碗一杯のいくら丼を食べ終えると、もう十分な気持ちになってしまうあたり、やはり、それほどのイクラ好きではないのだと、今年もまた再確認しているのである。


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by kels | 2010-09-27 19:47 | 随想・日記 | Comments(6)