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009 サムライ部落



武士部落と書いて、「サムライ部落(さむらい部落)」などと呼ばせていたようである。
「サムライ部落」は昭和40年代まで現実に存在していた下層社会であるため、人々の記憶の中にはまだ残っているはずであるが、これをきちんと記録した文献は、やはりほとんど残されていない。

サムライ部落とは、東橋~豊平橋の間の河畔に自然発生的に誕生した集落であり、行き場のない人々が最後に選択する空間であったと考えられる。
その発生は定かではないが、豊平細民街に細民が膨れあがった結果、あぶれた細民が川原に流れたのが最初と見る説が有力である。

もっとも、ここまで記述していないが、東橋に近い苗穂地区も、明治中期から細民街を形成しており、ここから溢れた人々が東橋近辺の川原に定住を始めたとも考えられる。
また、もともと「すすきの」にあった遊郭が菊水に移されたことによって、遊郭の残飯を目的とした浮浪者たちが豊平川を超えており、こうした遊郭に依存する貧民が菊水あたりから川原に移ったと考えることも可能である。
現実的には、豊平細民街、苗穂細民街、白石遊郭などといった複数の要素から発生したのが「サムライ部落」であると考えるべきなのかもしれない。


※昭和11年のサムライ部落(『新聞と写真に見る 北海道昭和史』収録)

昭和9年の「北海タイムス」には、『サムライ部落を訪ねて』という探訪記事が掲載されており、それによると、「サムライ部落」は昭和4年の9月に東橋近くに誕生したもので、当初は30名ほどの集団だったという。
「昭和4年発生」と時期が明確に記述されているのは、そもそも「サムライ部落」は永続的な集落ではなく、形成されては離散するという歴史を繰り返した集落だからであり、それは常に水害の危険と隣り合わせの川原集落にとっては宿命的なものであった。

水害があれば、粗末な小屋は流失し、集落はたちまち消失したが、人々は再び集まり、新しいサムライ部落を形成した。
戦後は、引揚者や戦災者などがここに加わり、ピークには川の両岸に集落が発生したという。
進駐軍の指導により、北海道と札幌市は河原居住者の排除に取りかかるが、移転は簡単には進まなかった。
東橋近辺の河原居住者達の移転が行われたのが昭和24年のことだったが、すぐに豊平橋~幌平橋にかけて新たな河原居住者が発生し、その後もサムライ部落の人々の移転は、常に札幌市にとっての課題となっていた。
札幌市が本格的にサムライ部落の解消に乗り出すのは、冬季札幌五輪の開催が決まったときで、昭和44年を最後にサムライ部落は姿を消した。
河原居住者達は、市内各地に建設された厚生住宅や改良住宅に移転、あるいは保護施設などに収容された。

札幌市白石区老人クラブ連合会による『白石歴史ものがたり』には、次のような記述がある。

白石地区には更正住宅(通称サムライ部落)というのがあった。
今では住宅も密集して昔の面影はなく、戦前から住んで居られた人だけが知っているものと思う。
それは豊平橋の上流から東橋の下流にかけての一帯で、河原に小屋をかけ、おはらい屋(雑品集め等のこと)をしているのは良い方で無職者の方が多かった。
昭和20年8月、終戦となり、札幌にも米軍が進駐して来て、直に札幌の状態を見聞し、当時の部落は見苦しいから取り払えとの命令が出た。
それでも札幌市もようやく腰をあげ、苗穂と琴似と白石の3ヶ所に、更正住宅なるものを建て、昭和31年12月、サムライ部落の移転となり、白石に、後にいうスラム街が出来た。


また、札幌市長を務めた板垣武四の回想録『思い出すまま』の中にも、「サムライ部落」の移転問題は登場する。

私が第二助役となった31年には、豊平橋上手から東橋下手にかけて合計149世帯、385人が掘っ建て小屋に住みつき、周辺住民を中心に、「都市の美観上、捨て置けぬ」との声が上がり、市議会でも天野房次郎さん(帝国座社長)が「人道的に見ても問題だ」として、しばしば本会議で質問されていました。
指摘されるまでもなく市では25,6年度頃から特別に更正住宅建設費を計上して解決に努力していたのですが、いざ移転となると受け入れ側の住民は猛反対、その解決はいつも暗礁に乗り上げていました。

さらに、サムライ部落の内部に踏み込んだルポタージュとして、とくざわりゅうたん『ニッポン裏街道紀行』がある。
とくざわりゅうたんは日本各地の貧困地域を歩いて周り、札幌ではこの「サムライ部落」に現れている。

札幌市内では、豊平川岸に広がるサムライ部落を訪ねた。
250軒ばかりの掘建て小屋が並んでおり、小さな寺まである。
(中略)
橋本さんの説明によれば、生活保護を受けているものが103世帯、ニコヨン家業をしているものが120名だという。
それでも3級地だから325円になるといっていた。
路地裏には、どこで仕入れたのか、古着を車に乗せて売る人たちがいた。
商売人はどこにでもいるのだ。
主婦たちがわっと押しかけてきて、一層ごった返してくる。


現在、豊平河畔はきれいに整備されており、かつてそこに粗末な集落があったことを偲ぶものは何もない。
だが、札幌が持っていた負の遺産として、サムライ部落は決して我々の記憶から忘れられてはならないのだ。

なお、上の写真は『ニッポン裏街道紀行』に収録されたもので、昭和30年代のサムライ部落を知ることができる貴重な資料だ。

※北海道で「部落」という言葉は小さな集落を意味する言葉として、多くの場面で用いられているものである。
by kels | 2011-05-01 07:02 | 札幌文化系コラム(札幌コラム) | Comments(0)

008 豊平細民街



遠友夜学校が慈愛の精神に満ちた美しい物語として歴史に名を留めているのに対して、豊平細民街の歴史は、既に闇に葬り去られようとしている。
しかし、札幌の下層社会史にとって、もっとも重要な存在であるのは、実はこの豊平細民街であるのかもしれない。

上の写真は、『さっぽろ文庫・別冊 札幌歴史写真集(大正編)』に収録された大正10年頃の「豊平町細民部落と細民統計調査員」であり、このときの調査は『札幌区細民調査統計表』(大正11年)としてまとめられている。

豊平細民部落は、明治28年日清戦争役の不景気に連れ、落伍者三々五々相集り、遂に集団を為す至れり。
当時同地一帯は札幌郡豊平村の一小字に過ぎず、本区の塵芥捨場を控えて、僅かに掘建小屋に起臥したりしも、漸次其数を増加すると共に、安宿業を営むものも出で、是等失業者等の便を図るに至り、更に大正78年欧州戦乱中、諸屑物の価格著しく騰貴したる。
当時は之を営業とする者、約100戸、人員300余名を算せり。


豊平地区に細民街が形成されるようになったのは、明治中期以降と考えられ、そこに行政が関与するようになったのは、大正デモクラシーにより人権保護の意識がようやく高まり始めた大正時代になってからのことであった。
明治末期には、豊平細民街は大規模な定着を見せ、明治44年の新聞では、警察署長が細民街を視察した際のコメントが掲載されていて、この時の視察は「南4条東4丁目(遠友夜学校があった辺り)」と、「豊平町の貧民窟」を対象に行われている。

この時期から、新聞紙上で細民街がテーマとして取り上げられるようになり、札幌の下層社会は新聞による記録を残すようになる。
当時は、横山源之助の『日本之下層社会』が発表されるなど、社会科学分野のレポートが脚光を浴びた時代でもあった。
もっとも、地元の新聞に残る貧民をテーマとした記事には、社会科学的な分析が充分にされているものはほとんどないような状況で、それが当時の札幌における下層社会に対する視点を物語っているようにも思える。
この時期の新聞記事については、別に紹介したい。

『新札幌市史機関誌 札幌の歴史 第38号』収録の『戦前の貧困地域と民間社会事業』(平中忠信)では、大正期における豊平細民街の状況が詳細に記載されている。
それによると、豊平地区の細民街は豊平町六番地、四番地などであり、大正11年、岩井鉄之助はこうした貧困地区の一画である豊平4条4丁目に低家賃住宅を建てたという。
この低家賃住宅は、その後「愛隣館」という公会堂となり、「愛隣館」はさらに昭和2年には無料宿泊所となった。
「愛隣館」は、敗戦後に保育所として再出発し、現在も地域に貢献する活動を続けている。
岩井鉄之助のこうした活動は、札幌における救済活動の黎明期のものとして、歴史に記録されるべく偉大な活動であったといえるだろう。

また、細民街の保育所といえば、大石スクによる「札幌保育園」があった。
札幌保育園は、大正12年になって豊平4番地に移転し、細民街における貧児保育に大きく貢献した。
その詳細については、『新札幌市史機関誌 札幌の歴史 第28号』に収録された『札幌の保育所』(大石徹)に詳しいが、この中で「豊平細民街」についての記述がある。

札幌市内には細民が各地に散在していたようだが、豊平にはこれがひとつのまちを形成しており、場所は豊平4番地・6番地・10番地一帯の地域であった。
「6番地」がほぼ中央に位置することから、この地域一帯の代名詞として使われた。
賀川豊彦が来札時、この地域を日本一の貧民窟といったとかで、ここが新聞に紹介されるたびに、枕詞のように賀川豊彦のこの言葉が引用されている。
細民が蝟集していた地域は現在の国道36号線を都心から来ると右側の裏の地帯(現豊平5条1丁目~2丁目)を指しているが、そこに小路を挟んで棟割長屋が隙間もないほどに建ち並んでおり、昼なお暗く、便所や下水が異臭を放つ不潔で薄気味の悪い地域であった。


なお、札幌保育園は数度の移転の後に豊平町80番地(現在の豊平6条3丁目)に移転し、現在も経営を続けている。

岩井鉄之助や大石スクらの活動に見るように、この時期の下層社会には慈善事業活動が発生を見せており、札幌の社会事業はこうした細民街を舞台として大きく発展していったことが分かる。
豊平細民街が、特に重要であるという考え方は、そこにこうした社会事業の系譜を見ることができるからだともいえよう。

『新聞と人名録にみる明治の札幌』に収録されている『郊外繁盛記』(昭和2年、北海タイムス)の「豊平と其の近郊」の回には、次のような記載がある。

馬糞の町、鍛冶屋の町、貧民長屋の町──豊平と聞いて先ず連想するのは之だ。
(中略)
大体其の頃の豊平市街は一本町であった。裏通りと云えば、豊平橋の袂から西に折れて行く水車通りへ行く方面に、汚ない小路が一本あったきりである。ひどい貧民長屋がたむろしていて、夏は臭くて通れなかった。それでも学校へ行くには近道であったので、急ぐ時はそこを通った。豊平の貧民窟というのは、あの辺をいうのだろうと漠然と考えていた。
(中略)
今なら其の貧民窟も何処にあるか一向に見当がつかない状態である。

この探訪記事では、豊平の細民街は既に解消されていて、現在ではとても暮らしやすい町になっていることを特に強調しているが、この豊平細民街では、同じ昭和2年にも保導委員による細民実態調査が実施されており、豊平の貧民窟が解消されていたとはとても言えないような状況であった。

翌昭和3年の北海タイムスでは、歳末救済を受ける豊平細民街の人びとの様子が、写真入りで報じられている。
(下の写真)



それでも、調査が開始された大正10年以降、貧民救済政策は徐々に進められ、札幌の下層社会の中心は細民街にさえ暮らすことのできない河原に居住する人々へと移っていった。
by kels | 2011-05-01 07:01 | 札幌文化系コラム(札幌コラム) | Comments(0)

007 遠友夜学校

「遠友夜学校」は、札幌の教育史に残る記念碑的な学校である。
札幌農学校2期生として学んだ新渡戸稲造は、明治27年にかねてより構想のあった私学を創設した。
札幌遠友夜学校創立百年記念事業会による「思い出の遠友夜学校」の中で、高倉新一郎は、遠友夜学校が誕生した当時の地域の状況を次のように記している。

南五条東四丁目、今でこそ札幌を東西に横断する国道に近く、中央繁華街はすでにこの付近に延びてきているが、当時は豊平川近く河原に臨んだ場末で貧民の集合所であった。

また、さっぽろ文庫18「遠友夜学校」にも、高倉新一郎の次のような記述がある。

当時この辺は豊平川原で、塵芥捨場であり、またその後も長く、貧民窟とか武士(さむらい)部落などとかいわれたような札幌の貧民の溜りでもあった。殊に札幌豊平河畔は北海道の貧民の溜り場であり、北海道自体は既開地で生活して行けなくなった者が集まっただけに、そして又冬の生活がむずかしかっただけに、その実状は最も悲惨なものであった。

こうした記述から読み取ることができるのは、この地区が細民街であったという歴史的な事実である。
そして、そうしたエリアだったからこそ、創始者である新渡戸稲造は、この場所に夜学校を創設する意義を感じていたのだろう。

夜学校の教師は、札幌農学校の教師や学生達が手弁当で参加し、生徒は経済的な事情により公的な教育を受けることのできない貧民の子ども達であった。
上の写真は、初代の夜学校校舎であるが、この校舎を舞台として多くの子ども達が巣立ち、多くの札幌農学校関係者が教壇に立った。
小説家として有名な有島武郎も、遠友夜学校で教鞭を執ったひとりで、当時の日記に次のような記載がある。

道に貧民窟なる豊平に出て夜学校に来りし時、優美なる唱歌の聞こえぬ。余は思はず月隈なき軒下に佇みて雙耳は全く唱歌に奪ひ去られ、之を聞くことなく稍々久しくて去り、二三間を歩み出でたる時、左側の茅屋より夜学校にて歌へる「夕空晴れて……」を微吟せるものあり。女の声なり。

その頃、有島は菊水の豊平河畔で生活をしていて、川原を歩いて豊平橋に出てから、橋を渡って夜学校に通っていたと思われる(当時の有島の住宅は、北海道開拓の村に保存されている)。
その後、大正3年になって、有島は短篇小説「お末の死」を発表した。
「お末の死」は、大正元年の豊平河畔の貧民窟を舞台として描かれた小説で、主人公の「お末」は夜学校に通う貧しい少女だった。
極貧生活の中で、家族との人間関係に疲れた少女が最後に自殺してしまう物語であるが、ここには有島が現実に見ただろう貧民街の暮らしぶりが描かれている。

主人公の少女「お末」には実在のモデルの存在が指摘されていて、彼女の名前は瀬川末といった。
瀬川末は遠友夜学校での有島の教え子であり、有島は後々まで、この瀬川の身の上を案じている。
遠友夜学校を卒業後も、有島は瀬川と会っているが、瀬川は私生児を産んだ後に自殺するという悲劇的な最後を遂げている。
こうした遠友夜学校を巡る物語の持つ悲劇的なストーリーは、そこが悲劇的な空間として成立していたことをうかがわせる。

札幌における細民の発生については、『新札幌市史機関誌 札幌の歴史 第16号』収録の『札幌における細民街の成立』(堅田精司)に詳しく報告されている。
それによると、札幌における細民街の出現は、明治10年代~20年代にかけてのことであり、その中心は「力役者(職工人夫)」の人々であった。
地域としては、南2条東2丁目周辺であり、創成川と豊平川とにはさまれた南東地域は、「力役者の町」を形成していたという。
初期の細民街は、定住する場所ではなく、力役者達が最初に住む場所であり、彼らは安定した職を得るとともに、やがて町を脱出していくという地域であった。
ところが、明治中期になって、この地域は正式な意味での細民街へと変質し、ここから脱出することは難しくなってしまったという。

遠友夜学校が登場したのは、まさしく細民街が定着を見せ始めた時期にあたる明治27年であり、新渡戸稲造の理想による貧民教育は、文字どおり貧民街の中にスタートしたのである。

現在、遠友夜学校の跡地には「札幌市中央勤労青少年ホーム(Let's中央)」が建設され、建物内部には遠友夜学校記念室も設置されている。
札幌の下層社会が歴史として正式に語り継がれているのは、この遠友夜学校だけで、それは新渡戸稲造を始めとした有志の功績であるといえるだろう。
by kels | 2011-05-01 07:00 | 札幌文化系コラム(札幌コラム) | Comments(0)

006 札幌の下層社会とは

札幌というと、美しい観光地で、詩の都で、アカシヤとライラックの街で、何もかもが夢のように整えられていて、みたいなイメージがあるかもしれないが、札幌の街が現在のように美しく整備されたのは札幌オリンピック直前のことで、それ以前の札幌は人間臭さが漂う、当たり前の生活空間としての街だった。
現在では忘れ去られてしまっているが、そこには経済格差が生み出した貧富の差が厳然とさらけ出されていて、当時の札幌はそれを当然のように抱え込んでいた。

札幌という街が、決して人工的に作られた観光地なのではなく、そこには人間が生きて、苦しみ、また、私財をなげうって貧しい人たちを救済しようとした人々がいたことを忘れてはならないと思う。
そこで、ここでは「札幌の下層社会」と題して、明治から昭和30年代まで札幌の街に存在していた顕在的な経済格差の象徴を取り上げてみたい。
中には、現代では引用することも憚られる表現もあるかもしれないが、歴史の証言として、できるだけ正確に事実を確認していきたいと思う。

札幌の下層社会史を記録した文献は、実はほとんどない。
新渡戸稲造の功績として語られることの多い「遠友夜学校」については記録が残っているものの、札幌の下層社会の概要を知ることのできる文献は、ほぼゼロなのである。
これは、札幌が社会科学に無関心なためだったのか、あるいは貧民救済活動に無関心なためだったのかは不明である。

現在、札幌の下層社会史を概略的に知ることのできる資料として最適なのは、札幌市が発行する「新札幌市史」である。
時代毎にまとめられているこの「市史」には、社会生活の項目で、下層社会についての記述がある。
ここでは、「市史」を参考として、札幌の下層社会史を振り返ってみよう。

札幌は、そもそも内地から入植した移住者たちによって作られた街だから、そもそものスタートはほぼ同一の条件にあった。
多くの人々が「裸一貫」で北海道に渡り、粗末な小屋を建て、貧しい暮らしに耐えながら、北海道の首都となる街の建設に当たったのである。
札幌に街としての機能が生まれ、経済的な空間が誕生するようになって、初めて人々は「豊かな人」と「貧しい人」とに区別されるようになっていった。

札幌で最初の「細民街」が形成されるようになったのは、明治10年代から20年代にかけてのことであると考えられる。
場所は、豊平川と創成川とに囲まれた南東地区で、明治27年には、この地区に「遠友夜学校」が誕生した。
遠友夜学校を中心とした地域における細民の生活は、遠友夜学校関係の多くの文献に記録されているところである。

明治末期になる頃から、細民街は豊平川を越えて、豊平地区に広がるようになる。
豊平川に近い豊平地区が「貧民窟」と呼ばれるようになるのはこの頃で、やがて昭和初期にかけて、豊平貧民窟は札幌を象徴する細民街となっていった。

次に、南東地区にも豊平地区にも暮らすことができなくなった人々が登場し、彼らは豊平河畔に定住するようになった。
川原に生まれた新しい「集落」は「サムライ部落」と呼ばれ、このサムライ部落が戦後まで札幌の下層社会の象徴となり、札幌オリンピック開催間近な昭和40年代に姿を消すまで、札幌の社会的矛盾を具現化する存在となったのである。

こうして振り返ってみると、札幌の下層社会は、大きく3つの段階に分けて考えることができる。
それぞれの段階に象徴的なキーワードがあり、それを並べると次のようになる。

1 遠友夜学校
2 豊平細民街
3 サムライ部落

そこで、今後はそれぞれの段階をひとつひとつ振り返りながら、札幌に生まれた下層社会とはどんなものだったのかを考えてみたい。
by kels | 2011-05-01 06:58 | 札幌文化系コラム(札幌コラム) | Comments(0)

005 純子がいた時代(渡辺淳一「阿寒に果つ」より)

電車通りが東端にぶつかり大きく北へと向きを変えて札幌南高校の横を静かに通り過ぎる時、僕はいつでも純子という若い画家の話を思い出さないではいられない。
純子は札幌という街に静かに、けれども確かに小さな足跡を残して消えた、まるでシャボン玉のような存在だった。

僕がその存在を知ったのは若き日の渡辺淳一が描いた小説「阿寒に果つ」の中であった。
この小説は札幌南高校在学中に天才少女画家として名を馳せた純子という女の子に恋をした作者の、青春の埋もれ火のような物語だ。

昭和20年代後半、まだ札幌にも戦争の痛手が姿を消していない時代に、作者は札幌南高校に在学していた。
それはちょうど学制改正のあった時代で、札幌南高校は男子校であった北海道第一高校から共学の学校へと姿を変えた時のことである。
純子は北海道庁立札幌女子高等学校(現在の札幌北高校)から札幌南高校へと移ってきた女子生徒のうちの一人だった。

「純子はよく休む子だった。顔色はいつも透けたように白く、髪は赤茶けていた。濃紺の冬のセーラー服を着る時、その白さは色白の子の多い北国のなかでも特に際だっていた。」

早熟で奔放な生活をしていると噂された純子から手紙を受け取り、密会をしていくうちに、作者はどんどん純子に惹かれていく。
作者の誕生日の夕方、2人はすすきのにほど近い喫茶店「ミレット」初めて密会をした。
当時はまだ喫茶店そのものが札幌でも珍しい時代で、もちろん作者も喫茶店というものにほとんど入った経験がなかった頃のことである。
純子はこの画家や新聞記者などといったいわゆる「文化人」が集う喫茶店を良く知っているようだった。

「喫茶店『ミレット』は札幌の駅前通りの薄野の交差点の手前にあった。翌日、私はそこへ六時五分前に着いたが純子はまだ来ていなかった。私は空いていた隅のボックスに座り、コーヒーを注文した。店は入口に近くカウンターがあり、その右手に十組近くのボックスがあったが、それらの椅子は、どれもヨーロッパの映画にでも出てきそうな、十七、八世紀ふうの背もたれがついた細くて長い木製のものだった。客はほとんどが中年の人で、みな店の常連のようだった。」

そんな店でコーヒーを飲んだ後、2人は駅前通りを北へ歩き、四丁目の交差点、南一条通りを越えた後、大通公園を西へと曲がる。

「大通りは十丁目で跡切れ、そこから先は裁判所の石造りの塀が続く、私達はその南側をすぎ、二十丁目へ出て左へ曲がった。道のところどころにポプラや、ハルニレの巨木があり、その梢の先の雲の形は絶えず変わっていく。人影はほとんどなく、時たま車の警笛だけが遠く聞こえた。当時の札幌は人も車も今とはくらべものにならぬほど少なかった。」

この日から2人はたびたび密会を重ねるようになり、その都度くちづけをするようになるが、小鳥のような純子は大人達の世界をも自由に飛び回り、やがて冬のある日に姿を消してしまう。
純子の自殺遺体が発見されるのは既に春近い阿寒の原生林の中でであった。

純子との思い出を棘のように抱え込みながら、作者は必至に当時を回想し、純子という一人の少女の真実を克明に描き出そうとしている。
この小説を手に、僕は小説の舞台となった街を歩いてみようと思った。
それは2人が出逢った札幌南高校、薄野交差点近くの喫茶店「ミレット」、そして作者の自宅があった円山という3つの点に囲まれた緩やかに広い範囲だ。

市電に乗って札幌南高校を通り過ぎる頃、僕は当然過ぎる事実を突きつけられて胸が痛んだ。
札幌はあまりに変わりすぎているということに、今更ながら気づかされたからだ。
札幌南高校は既に純子が学んだ校舎ではなく、喫茶店「ミレット」もない。
60年という月日は、つまりそれほどに長いものだということなのだろう。
それでも電車通りを歩きながら、あるいは大通りを西へと歩きながら、僕は少しずつ純子がいた時代へと気持ちが移り変わっていくのを感じている。
ポプラやハルニレが老いてなお蒼く輝いているのを眺めながら、僕は2人が歩いただろう道程を心の中に描いている。
歴史とはそんなふうにして感じることも自由なのだ。

***
本作「阿寒に果つ」に登場する時任純子のモデルとなった加清純子については、こちらのブログでも詳しく紹介されています。
札幌南高13期東京同期会>>>小説「阿寒に果つ」のヒロインは同期生の姉
by kels | 2011-05-01 06:54 | 札幌文化系コラム(札幌コラム) | Comments(0)

004 スイートピーの女(石川啄木の下宿)

啄木が札幌滞在中に出会った女性として良く知られる人物に、この「スイートピーの女(きみ)」がある。
それは決して強烈な出会いというものでもなく、深い交際というほどのものでもなかった。
けれども、啄木は晩年までこの女性を記憶の片隅に残し、ある特別の感情を抱いていたのではないかと思われる節もある。
今回は、この「スイートピーの女」について紹介しよう。

啄木が札幌に到着したのは明治40年9月14日土曜日の午後1時過ぎのことである。
故郷渋民村を追われて、函館で仕事を見つけた啄木だったが、函館大火に見舞われて新しい安住の地を札幌に求めることとなった。
啄木の札幌での活動には、文芸仲間である向井永太郎の協力が大きかった。
災害の救済活動に函館を訪れた向井に対して啄木は札幌での職探しを依頼、首尾良く北門新報社の校正係の口が見つかり、啄木の札幌移住が決まった。
札幌駅に降り立った啄木を迎えたのは、向井永太郎と松岡政之助の二人だった。

乗客の大半は此処で降りた。
私も小型の鞄一つを下げて乗客庭(プラットホーム)に立つと、二歳になる女の児を抱いた、背の高い立見君(向井永太郎のこと)の姿が直ぐ目についた。も一人の友人も迎へに来て呉れた。
「君の家は近いね?」
「近い。どうして知ってるね?」
「子供を抱いて来てるじゃないか」


自伝的小説「札幌」の中で、啄木は札幌到着時の様子をこのように再現している。
故郷から呼び寄せたばかりの家族を函館に残して、啄木の札幌での宿は素人下宿屋の一部屋ということになった

九月に入り札幌に在る詞友夷希微向井永太郎君より飛電あり来りて北門新報社に入れ月十五金給せむと。乃ち其月十三日夕星黒き焼跡に名残を惜みて秋風一路北に向ひ翌十四日札幌に着き向井君の宿なる北七条西四丁目四、田中方に仮寓を定む。

これは、啄木が北門新報社に入社してすぐ紙上に掲載した「秋風記」の文章で、宿となるべき下宿屋を仮の宿と表現している。
当然、啄木としては、家族を呼び寄せて安住の地を構えたいという思いもあったことだろう。
続けて、小説「札幌」からの引用である。

立見君(向井永太郎のこと)の宿は北七条の西○丁目かにあった。
古ひ洋装擬ひの建物の、素人下宿を営んでいる林(田中家のこと)という寡婦の家に室借りをしていた。
(中略)
私もその家に下宿する事になった。
尤も明間は無かったから、停車場に迎へに来て呉れた一人の方の友人──目形君(松岡政之助のこと)──と同室することとしたのだ。


当時、札幌も5月に大火があったばかりで、住宅事情は相当に厳しいものであったらしく、啄木も向井永太郎が家族で暮らす下宿屋の一室で、松岡とさらにもう一人、学生との3人での生活ということになったのだった。

さて、話を「スイートピーの女」に進めなければならない。
啄木が札幌に荷物を解いたその夜の、有名な歌がある。

わが宿の姉と妹のいさかひに
初夜過ぎゆきし
札幌の雨


この歌こそ、啄木が「仮寓を定む」とした田中サトの下宿屋を舞台としたものであった。
「姉」は長女田中久子、「妹」は次女田中英子である。
久子はこの春に北星女学校を卒業したばかりの18歳、英子は13歳であった。

 【下宿屋の姉と妹】

啄木の下宿する田中家は札幌市北7条西4丁目4番地にあった。
札幌停車場のすぐ裏に位置する辺りであり、啄木の新しい職場北門新報社にも近かったから、まず便利な場所にあったと思われる。
小説「札幌」の中で、啄木は下宿屋の家族との交流について描いている。

姉は真佐子(田中久子のこと)と言った。
その年の春、さる外国人の建てている女学校を卒業したとかで、体はまだ充分発育していない様に見えた。
妹とは肖ても肖つかぬ丸顔の、色の白い、何処と言って美しい点はないが、少し藪睨みの気味なのと片笑靨(かたえくぼ)のあるのとに人好きのする表情があった。
女学校出とは思はれぬ様な温雅(しとや)かな娘で絶え絶えな声を出して賛美歌を歌っている事などがあった。
学校では大分宗教的な教育を享けたらしい。


クララ・サラ・スミス女史によって設立された北星女学校は、キリスト教精神を重んじるミッション系の学校であったら、久子もその影響を大きく受けていたことだろう。
さらに、「札幌」の中には次のようなシーンがある。

それから飯を済まして便所に行って来ると、真佐子は例の場所に座って、(其処は私の室の前、玄関から続きの八畳間で、家中の人の始終通る室だが、真佐子は外に室がないので、其処の隅ッコに机や本箱を置いていた)編物に倦きたといふ態で、肩肘を机に突き、編物の針で小さな硝子の罎に挿した花を突ついていた。豌豆(えんどう)の花の少し大きい様な花であった。
「何です、その花?」と私は何気なく言った。
「スヰイトビインです」
よく聞えなかったので聞直すと、
「あの、遊蝶花とか言ふさうで御座います」
「さうですか。これですかスヰイトビインと言ふのは」
「お好きで被入(いらっしゃ)いますか?」
「さう! 可愛らしい花ですね」
見ると、耳の根を仄のり紅くしている。


つまり、啄木にとって田中久子を回想する場面で大きな要素となったのが、当時はまだ珍しかったスイートピーの花であった。
啄木が家族を呼んで田中家に落ち着く算段を整えた頃、妻の節子と長女の京子が下宿を来訪し、啄木の家族と久子との出会いについても、小説「札幌」では描かれている。

二人限になった時、妻は何かの序にこんな事を言った。
「真佐子さん(久子のこと)は少し藪睨みですね。穏しい方でせう」
やがて出社の時刻になった。
玄関を出ると、其処からは見えない生垣の内側に、私の子を抱いた真佐子が立っていた。
私を見ると、「あれ、父様ですよ、父様ですよ」と言って子供に教へる。
「重くありませんか、そんなに抱いていて?」
「否(いいえ)。嬢ちゃん、サァ、お土産を買って来て下さいって。マァ何とも仰しゃらない!」
と言ひながら、耐らないと言った態に頬擦りをする。
赤児を可愛がる処女には男の心を擽るような点がある。
私は真佐子に二三歩真佐子に近づいたが、気がつくと玄関にはまだ妻が立っていたので、そのまま外へ出て了った。

この自伝的小説「札幌」は、啄木が後年札幌を述懐した形で書かれているわけだが、札幌滞在中の啄木にとって、久子が爽やかな印象を持って記憶していたことが推測されるだろう。
啄木の札幌滞在は、しかし突然の小樽移転によってわずか2週間で幕を閉じた。
田中家で算段した計画はすべてご破算になってしまったわけだ。
急遽、小樽日報への転職を決意した啄木は9月27日に札幌を離れて、小樽へ移った。

啄木が下宿を出る際に、下宿屋の未亡人田中サトは、啄木に久子の就職口について依頼をしている。
啄木と久子との糸は、この時点でまだ繋がっているわけで、実際、啄木は小樽から向井永太郎に差し出した葉書に次のようにあった。

尚田中の久子様の事母堂に御約束の学校の方目下区内に一人もアキなし、何れ出札の上ゆるゆる御世話致すべしと御伝へ被下度候

さらに、小樽を追われて移住した釧路からの手紙にも、久子の就職についての件がある。

田中様の久子氏学校教員希望の件、小樽では小生自身の態度不明なりしと、且つ空席なかりしためその儘に致し置き候ひしが、若し今猶其希望ならば(而して釧路でもよければ)空席もある模様にて且つ小生は有力なるツテも作り候間、履歴書御送付方御勧誘被下度候、本月末か来月初めには小生の家族共も来る筈故拙宅に御同居、先方で異議なくば遠慮無用に候、給料もあまり悪くない様子に候。

つまり、釧路へ移った啄木は、久子の就職口を見つけたうえ、自宅に同居することもできますよと連絡をつけたのである。
もっとも、その時、既に久子は札幌近郊の村にある新琴似尋常高等小学校(現在の新琴似小学校)の教員になっていたから、啄木のこの話は実現しなかった。
もっとも、当時の久子の周囲の人たちの記憶に寄れば、久子自身が「釧路に行くことになるかもしれない」と話していたらしいから、久子自身にももしかすると多少の可能性があったのかもしれない。
以後、啄木は上京し、田中家は下宿を止めて朝鮮へ渡ってしまうことになるから、二人の繋がりは完全に途絶えてしまうこととなるのである。

ところで、後年啄木は「きれぎれに心に浮かんだ感じと回想」というエッセイの中で、次のような話を書いている。

同じやうな事がある。
矢張其友人と、或日、札幌の話をした時、話の中の女の名を不図忘れて了って、どうしても思出す事が出来なかった。
その女といふのは、私が一昨年の秋、二週間札幌にいて泊っていた家の娘であった。
スヰイトビイとかいふ花を机の上の瓶にさして、その前で小声に賛美歌を歌ひながら、針仕事をしている大人しい娘であった。
一週間か其余も経ってからである。
其友人と日が暮れてから、本郷の通りを散歩していると、色々の花を列べてある植木屋の露店の前に来て、突然、私はその女の名を思出した。
大切な落し物を拾ったよりも猶嬉しかった。
そして友人に話した。
友人は、「ああ、さうでしたか」と言った。
私は口を噤んで、「また贅沢な喜び方をした」と思った。

ここでも、久子はスイートピーの花とともに啄木の記憶の中から登場している。
スイートピーの持つ純潔なイメージと、初々しい久子の印象が極めて強い結びつきを持って、啄木の中で成長を続けていたのかもしれない。
そして、日々の生活の中で、久子に関する思い出を語る時、啄木は盛んに「スイートピーの女」という表現を使ったとも伝えられる。
啄木が明星派の歌人であったことを考えると、女性を花に例える表現方法は不思議ではなかったらしい。

最後に、啄木の残した不思議な女性リスト「忘れな草」について。
啄木は自身に縁のあった6つの街の名をあげて、それぞれの街に去来する女性の名をローマ字のリストとして残している。
その街の中にはもちろん札幌があり、そこには「サッポロ──ヒサ・タナカ」と、田中久子の名前だけがあった。

啄木よりも長く田中家を宿とした向井永太郎は「石川啄木の追憶」の中で、啄木と久子について、次のように書いている。

サッポロの田中家に俺と同居中、同家の長女に対する彼の興味は確かに、将来の進展を想像されるものがあったらしいことは、同宿の若人達(俺も無論若かったが、妻子携帯者であった)の後に噂話にも上った程であるが、その点バイロン的であったかもしれない。

深い関係にもならなかった下宿屋の18歳の娘のことを「スイートピーの女」と吹聴した啄木の真意を知ることは今ではできない。
ただ、啄木がサッポロでの滞在先で過ごした時間の多くを、下宿屋の久子という女性とスイトピーの花に印象づけて記憶していたことは、何か我々にほっとしたものを感じさせる。

「古ひ洋装擬ひの」下宿屋は田中家が去ったしばらく後、昭和7年に取り壊されて、北7条郵便局となった。
現在では近代的な大型ビル(クレストビル)が建ち、札幌駅北口周辺も数度の開発を経て、当時の面影を偲ぶことはできない。
ただ、ビルの入り口に、かつてそこに啄木が下宿をした家があったことを教えてくれる説明板と啄木の像があるだけである。
by kels | 2011-05-01 06:53 | 札幌文化系コラム(札幌コラム) | Comments(0)

003 石川啄木の忘れ物(橘智恵子の思い出)

たった2週間という短い滞在の間に、石川啄木は札幌という街を生涯忘れることのできない街として記憶に残し、北国の小さな街に関わる様々なエピソードを遺した。
ローマ字で書かれた短い文章、タイトルさえないその断片には、啄木が札幌に対して忘れることのできなかった熱い何を伝えているかのようだ。

懐かしきちえ子さん
別れて来て私のまず第一に感じたことは、私たち二人が、この二日の間、何も別段の話をしなかったにかかわらず、どれだけ互いに慰められていたかということです。
今夜、小樽に着いてこの宿に泊まりましたが、私は何だか大切なものを札幌に忘れて来たような気持ちで、


創作の下書きと思われるノートに収められたこの断片は、啄木の札幌に対する思いが溢れているといえるのだはないだろうか。
そして、啄木にとっての札幌は、文章の宛名である「ちえ子さん」を通して必ず語られるべきものだったのかもしれない。
彼女の名は橘智恵子。

石川啄木が故郷渋民村を追われて来道した頃、それは明治40年5月のことであるが、彼は函館区立弥生尋常小学校代用教員の職に就いていた。
その時、同僚教員の一人として啄木は智恵子と出会う。
当時の日記に、啄木は「橘智恵子君は真直に立てる鹿ノ小百合なるべし」と記し、札幌への移転の前日には、処女詩集「あこがれ」を携えて智恵子の下宿先を訪ねたりもした。

もっとも、啄木自身の日記によれば、彼が智恵子と2人きりで話をしたのは2度だけで、この「橘女史を訪ふて相語る二時間余」は、啄木自身にとってよほど強烈な印象を持って記憶されることとなったらしい。

 【当時の橘智恵子】

翌日、札幌入りをした啄木は、「函館なる橘智恵子女史外弥生の女教員宛に手紙を書けり」と日記に記し、札幌に着いてから智恵子へ手紙を送ったことを記録している。

やがて、智恵子も函館を引き払い、実家のある札幌村へと戻ってくるが、啄木も僅か2週間で小樽へと所在を移し、2人が出会う機会はほとんどなかったのではないかと考えられる。
啄木が札幌に滞在していた時の下宿は北区北7条西4丁目にあり、智恵子の実家は札幌郡札幌村14番地で林檎園(橘果樹園)を営んでいた。
現在の東区北11条東12丁目15番地で、2人の接点は驚くほど近かったということもできるかもしれない。

石狩の都の外の
君が家
林檎の花の散りてやあらむ


有名なこの歌に歌われた情景こそ、橘智恵子の実家であり、橘果樹園に咲く林檎の花であった。

やがて、小樽をも追われて釧路を訪ねた啄木は明治41年に上京、その後智恵子と数度に渡る手紙のやりとりをした。
それらの内容は多くが他愛のない世間話であり、また智恵子が急性肋膜炎で入院していたことに対する見舞いの言葉であったりした。
当時、智恵子は母校の札幌女子高等小学校(後の大通小学校)に赴任しており、翌42年には病気のために退職を余儀なくされている。

この頃から、啄木の日記には智恵子に対する憧憬から激しい言葉が現れるようになった。

「人の妻にならぬ前に、たった一度でいいから会いたい!」
そう思った。
智恵子さん!
なんといい名前だろう!
あのしとやかな、そして軽やかな、いかにも若い女らしい歩きぶり!さわやかな声! 以下略


会いたいと思っても会うことのできない状況が啄木をここまで熱くさせたのだろうか。

明治43年、北海タイムスの大島経男に宛てた手紙の中でも、啄木は札幌への熱い思いを吐露している。

札幌!
私の好きな札幌!
いたのは二週間にすぎませんでしたが、思い出は少なからずあります。
そして今、私の知っている或る美しい、そして悲しい人が其処で長い病の床についています。
私は今後その人とあなたの名によって札幌を思い出すことが一層多いでせう


悲しい人はもちろん智恵子のことであろう。
智恵子への熱い思いを押さえきれなくなった啄木は、以降、智恵子との相聞歌ともいわれる一連の短歌を次々と発表した。
そして12月、啄木の代表作ともなった処女歌集「一握の砂」を発表、この中で啄木は「忘れがたき人人二」として、智恵子に寄せる熱くも悲しい22首の歌を収録した。

死ぬまでに一度会はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか


啄木は、この歌集に「橘智恵子様へ著者」の署名を入れた上で智恵子へ贈った。
さらに、ここに収まる22首の歌について「君もそれとは心付給ひつらむ」と葉書にしたためて、これを郵送したのだった。

ところが、翌44年1月、智恵子から歌集への礼状が届いた際に、啄木は智恵子が既に人の妻となったことを初めて知った。

初めて苗字の変わった賀状を貰った。
異様な気持ちであった。
「お嫁には来ましたけれど、心はもとのまんまの智恵子ですから」と書いてあった。
そうして自分のところでこさへたバタを送ってくれたと書いてあるが、東北線の汽車雪でおくれてるのでまだ着かない。


結局、啄木と智恵子との恋とは、「一握の砂」の中で完結したわけで、それは啄木の側からの一方的な恋物語だった。

明治45年、啄木は「一握の砂」にすべての思いをぶつけたようにして、26歳の短い人生を終えた。
ただ、当の智恵子自身も啄木から贈られた歌集と葉書を、ある特別の感情を持って保管していたという説もある。
啄木の死後、「一握の砂」に対する評価が高まるにつれて、啄木と智恵子との悲しい恋物語の話が流布されるようになり、智恵子も周囲の好奇心に満ちた視線の中で生活することとなった。

北村の名家である北村牧場へ嫁いだ智恵子は、啄木から贈られた歌集と葉書を嫁ぎ先でも大切に保存していたという。
それが実際に確認されたのは、智恵子の死から実に7年後のことであった。
その時、発見された葉書の一部には文字を伏せる形で厚紙が貼られてあり、すべての文面を確認することはできないような状況であった。
それは例の「君もそれとは心付給ひつらむ」と綴られた一連の文章であった。

啄木の死後、研究家の問いに答える形で、智恵子は啄木についてこう語っている。

石川啄木氏につきましては私も委しきことは存じません。
函館におすまひになりました時分にお知り合ひになりまして、其の後年に一二度のお便りがありましたのみ、ほんの一寸の御交際で御座いました。
(中略)
青年時代から変った方でしたが、こんな有名な詩人だとは存じませんでした。
啄木全集には色々委しいことがのって居る様です。
これ以外私存じません。


その智恵子も、大正11年、産褥熱のため岩見沢病院で死去した。
33歳の時であった。
啄木の死後、3ヶ月後に出版された「悲しき玩具」の中に、智恵子を思う歌が一つだけ収録された。

石狩の空知郡(そらちごおり)の
牧場のお嫁さんより送り来し
バタかな。


あるいは一方通行の恋であったかもしれない。
啄木には妻も娘もいたのだから、最初からかなわぬ妄想だったのかもしれない。
それでもなお、啄木が智恵子を焦がれ続けた思い、そして智恵子を通して忘れることのなかった札幌への思いは、平成の世の我々にさえ熱い何かを伝えている。

「私は何だか大切なものを札幌に忘れて来たような気持ちで」
もしかすると、啄木の悲しくも熱い忘れ物は、今でもこの札幌の地のどこかで戻ってくるだろう主を待ち続けているのかもしれない。
智恵子の実家には、今も啄木の歌碑が忘れられた何かを待っているかのように建ち続けている。
by kels | 2011-05-01 06:52 | 札幌文化系コラム(札幌コラム) | Comments(0)

002 カバシマヤ

僕が初めてカバシマヤを訪れたのは、北海道を1年に1度か2度襲うことが知られている「ドカ雪」が札幌の町に降り、やり場のない雪の処理に誰もが頭を悩まし、札幌中の道という道が雪のために渋滞していた、そんな真冬のある日のことだった。
その頃、カバシマヤは現在の4プラではなく、東屯田通りと呼ばれる、その名のとおりかつて屯田兵によって開拓されたエリアの南外れに小さな店を出していた。
冬ともなると、自動車の置き場にも困るような狭い道に面していて、僕は店の脇の小路に間に合わせ程度に作られた駐車スペースに自動車を無理矢理止めた。

店内にオーナーは不在で、おそろしく若い女の子が一人、店番をしていた。
まだ、高校を卒業したばかりかと思われるようなその女性は、暗い店の奥で静かに微笑んだ。
僕がこの店を訪れてみようと思ったのは、ある個人のホームページで、この店についての簡単な紹介が掲載されているのを見たからだった。
噂通りに、店内には昭和初期から中期にかけての食器やインテリア、時計なんかがびっしりと並べられていて、レトロな照明の光に照らされて、その空間はまるで昭和時代に逆行したかのようなムードを生み出していた。
大雪が降ったばかりということもあり、町はとても静かで、まして昭和の匂いを漂わせたカバシマヤの店内は、物音一つ聞こえない状態だった。

僕が物珍しげにガラス食器を眺めていると、店の女性は、「このお店は、オーナーのコレクションを商品にしているのです」といったようなことを説明した。
カバシマヤは、いわゆるコレクター上がりの店だったから、商品の状態は極めて良く、コレクターの眼鏡を通して選び抜かれた品物が並ぶというのが原則だった。
そのうえ、オーナーはとても潔癖な人だったこともあり、商品として並んでいるものの多くは「デッドストック」と呼ばれている未使用品がほとんどだった。
淫靡な雰囲気に飲み込まれたように、僕はたちまちその店の虜になったような気がする。
気泡だらけの小さな金魚鉢とガラスのコップを買って、僕は初めてカバシマヤの客となった。
店を出た後も、昭和の暗い光の中に静かにたたずんでいる女性のことが思い出された。

次に、カバシマヤを訪れたとき、僕はオーナーと初めての挨拶をした。
初対面のときから、オーナーはとても饒舌で、コレクターらしく商品についての知識や思い出話なんかを聞かせてくれた。
この日、僕が買ったものは、金魚鉢の中に飾られていた古いビー玉と古いおはじきで、僕のビー玉コレクションは、このときに始まったものだった。
というよりも、この日カバシマヤで買ったビー玉の美しさに、僕は取り憑かれてしまったという方が正しいかもしれない。

冬が終わる頃、僕はカバシマヤのすぐ近くへ引っ越したこともあり、東屯田通りのこの店へは、その後も時々顔を出すようになった。
だから、僕にとってカバシマヤといえば、今でも、東屯田通で昭和の光を漏らしていたあの頃を思い出すし、なにげなくその通りを歩けば、かつてそこにあった昭和の光を思い出してしまう。

その後、カバシマヤは都心のテナント・ショップ「プリヴィ」に2号店を出店し、さらに、東屯田通り店は現在の南3条にある路面店へと移転した。
プリヴィの閉店によって、店舗は路面店だけとなり、その路面店も現在は4プラへ移転してしまったけれど、都心で生まれ変わったカバシマヤは、あの頃よりずっとプロのショップらしい顔になって活動している。

■住所     札幌市中央区南1条西4丁目 4丁目プラザ7階
■営業時間   4プラ定休日と同じ
■定休日    4プラ定休日と同じ
■ホームページ http://www.kabashimaya.com/


by kels | 2011-05-01 06:50 | 札幌文化系コラム(札幌コラム) | Comments(0)

001 古物 十一月

時間が止まったような空間、という言葉がある。多くの骨董屋がそんな称号を受けてきたが、僕にとって時間が止まったような空間というと、やはり「十一月」にとどめを刺すような気がする。
それは、まるで田舎に済む親戚の古い家を訪ねたかのような感触で、普通に営業しているだけのはずの空間なのに、なぜかそこは温かくて懐かしかった。

ドアを開けると、いつでも女性店長の爽やかな笑顔が迎えてくれた。
いや、開店直後に訪れた時など、睡眠不足の不機嫌そうな顔が待っていることだってあったかもしれない。
けれども、この店は僕を妙に爽やかな風で迎えてくれるような気がする。
マタ、アイツガ、ヤッテキタゾ!
店主のそんな視線を感じながら店に入ると、彼女はとてもおかしそうに笑って言うのだ。
「先週と何も変わってませんよ~」
それでも、僕は自分のルールにしたがって店の中をゆっくりと移動しながら、店の中の商品をひとつずつ見て回る。

前回来たときにちょっと気になっていたものがなくなっていたりすると、まるで自分の顔見知りが人混みの中に消えてしまったかのような、軽い寂しさを覚えてしまう。
新しい商品が所在なげに店の片隅に乗っていたりすると、僕はそれを手にとってじっくりと観察をし、そのうちのいくつかは自宅に持って帰ることになる。
もちろん、僕がこの店に出入りするようになってから、ずっと客を待ち続けている気の長い商品だってそこにはあるわけで、そんな商品の数々を眺めることで、僕はこの店に帰ってきたような気持ちにもなれるのだ。

関西出身だという彼女には、北海道に対する強い憧れがあるらしくて、北海道の魅力や関西での暮らしぶりなどについて彼女と話をすることは、とても楽しいことだった。
店内にはいつでも静かなBGMが流れている。
特に、冬の始まりでもある十一月は「ロシア月間」だったから、いつでも懐かしいロシア音楽が静かな店内を一層孤独にしていた。

僕が見つけたおかしな人形や雑貨を持っていくと、彼女はいつでも不思議そうに笑うのだ。
ドウシテ、コンナモノヲ、カウノ?
彼女にしてみると、僕はいつでも不思議なものを買って帰る、不思議な人間に違いない。

けれども、不思議な魅力という意味では、十一月の店内に敵うものではない。
どこの店でも見つけることのできないような、古びた釘や古びた鎹(かすがい)や古びた積み木なんかが、この店では立派に商品としての主役を張っていた。
骨董店の店主を演出家としたなら、彼女は野に埋もれる女優志望の女の子に、小さな魅力を見つけては舞台に引っ張り上げる、そんな不思議な演出家といえるだろう。
だから、この店では決して派手ではないけれど、じっくり付き合っていきたいタイプの女優たちが静かにたたずんで自分の出番を待ち続けているのだ。

今日も僕は十一月へ顔を出すだろう。そして、彼女は決まって笑うのだ。
「この間と何も変わっていませんよ~」
きっと彼女は知らないのだろう。僕がこの店へ通うのは、決して掘り出し物を探そうとしているのではなく、記憶の中の懐かしくて温かい空間を求めているのだということを。
ロシア民謡と木の香りと爽やかな笑顔。
この店に入るとき、僕はごく自然に(ただいま)と口の中でつぶやいている。

■住所     札幌市中央区南2条西8丁目 狸小路8丁目「FAB CAFE」の2階
■営業時間   13:00-19:30
■定休日     月曜日・火曜日
■ホームページ http://11gatsu.info/11gatsu.html


by kels | 2011-05-01 06:47 | 札幌文化系コラム(札幌コラム) | Comments(0)