カテゴリ:札幌文学散歩( 20 )

石川啄木は「創成川」の名を聞いて、「うれしき名なり」と書いている

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札幌は秋意漸く深さなり、
函館の如く市中を見下す所なければ市の広さなど解らず、
程遠からぬ手稲山脈も木立に隠れて見えざれば、
空を仰ぐに頭を圧する許り天広し、
市の中央を流るゝ小川を創成川といふ、うれしき名なり、
札幌は詩人の住むべき地なり、なつかしき地なり静かなる地なり、

「丁未日誌」石川啄木(1907年)

札幌へ到着した翌日に、啄木は市内を散策している。
啄木の目に、秋の札幌は随分お気に召したらしい。
様々な文章に、札幌がいかに詩的な街であるかが残されている。

この市内散策のときに、啄木は「創成川」を発見している。
どんなルートを辿ったか不明だが、意外と東側まで歩いていたことは分かる。
もっとも、当時は西側に向っても、何もなかっただろうけれど。

啄木は「創成川」の名を聞いて、「うれしき名なり」と書いている。
そして、「詩人の住むべき地なり」と書いている。
弱冠21歳の青年天才詩人の胸に響いたものは、札幌の何だったのだろうか。

さて、創成川は、エリアによって様々な表情を見せてくれる川である。
中心部は公園までできてきれいになったけれど、北へ向かうと、また違う表情がある。
何となく昔の創成川の面影を探して歩くのも楽しいかもしれない。


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by kels | 2016-05-14 06:32 | 札幌文学散歩 | Comments(0)

石川啄木の札幌での下宿屋は、札幌駅北口にあたる北7条西4丁目4番地にあった

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立見君の宿は北七条の西○丁目かにあつた。
古い洋風擬ひの建物の、素人下宿を営んでゐる林といふ寡婦(やもめ)の家に室借(へやがり)をしてゐた。
立見君はその室(へや)を「猫箱」と呼んでゐた。
台所の後の、以前(もと)は物置だつたらしい四畳半で、屋根の傾斜なりに斜めに張られた天井は黒く、隅の方は頭がつかへて立てなかつた。
其狭い室の中に机もあれば、夜具もある、行李もある。
林務課の事業手といふ安腰弁の立見君は、細君と女児こどもと三人でそんな室(へや)にゐ乍ら、時々藤村調の新体詩などを作つてゐた。

「札幌」石川啄木(1908年)

「札幌」は未完成・未発表だった石川啄木の小説である。
札幌時代の啄木を知る材料として、非常に面白い部分が、たくさん残されている。
可能であれば、完成させて、世の中に発表してほしい作品だったと思う。

啄木の札幌での下宿屋は、札幌駅北口にあたる北7条西4丁目4番地にあった。
田中サトという未亡人が営む下宿屋だった。
「古い洋風擬ひの建物」だったらしいが、当時の写真は確認されていない。

啄木が札幌入りした明治40年という年は、札幌の不動産業界にとって大変な年であった。
この年の春に、札幌市内で大きな火災があり、多くの住宅が焼けた。
さらに、夏には函館市内で大火があり、焼け出された人たちが、札幌市内への流れ込んできた。

当然のことながら、札幌市内の下宿屋にも空き部屋が全然ないという状況だったらしい。
単身で赴任した啄木が、相部屋で暮らさなければならなかったことも、ある意味、必然のことであった。
こうした暮らしが、啄木の性格に適さなかったことは、もちろんだけれど。

さて、写真は、現在の北7条西4丁目付近のものである。
写真左手にある黒っぽいビル(クレストビル)のあるところに、かつて啄木の下宿屋があった。
面影は皆無だが、ビルの中に啄木の胸像と説明板がある。

写真右手の道の奥には、札幌駅北口が見える。
田中サトの下宿屋は、札幌駅から非常に近くて、利便性の良いものだったらしい。
啄木は、ここから職場である「北門新報社」へと歩いて通った。

札幌の啄木散策では、欠かすことのできないスポットである。


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by kels | 2016-05-08 07:32 | 札幌文学散歩 | Comments(0)

石川啄木は「札幌に似合うのは、高層ビルではなく平屋造りの大建物だ」と言った

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札幌に似合へるものは、幾層の高楼に非ずして幅広き平屋造りの大建物なり、
自転車に非ずして人力車なり、朝起きの人にあらずして夜遅く寝る人なり、
際立ちて見ゆる海老茶袴(えびちやばかま)に非ずして、しとやかなる紫の袴なり。
不知(しらず)、北門新報の校正子、色浅黒く肉落ちて、世辞に拙(つたな)く眼のみ光れる、
よく此札幌の風物と調和するや否や。

「秋風記」石川啄木(1907年)

啄木は、いろいろな場面で札幌を賛辞している。
日記や書簡なども、表現方法のひとつだった。
ただし、世の中に公表された散文としては、この「秋風記」があるのみである。

札幌で啄木は「北門新報」という新聞の校正係に就職する。
他人の書いた記事を校正する仕事だから、決して文学的な仕事ではなかったに違いない。
もちろん、文学者たる啄木の納得できるような仕事ではなかった。

それでも啄木は、9月18日付けの北門新報に「秋風記」という題名のエッセイを寄せている。
ただの校正係では終わらないという意思表示だったのかもしれない。

それにしても、啄木が札幌入りしたのは、14日の土曜日である。
15日の日曜日は市内を散策しており、初めて出社したのは16日の月曜日だった。
日記によれば、17日の火曜日に「北門歌壇」と「秋風記」の原稿を編集局に提出している。

啄木の並々ならぬ意欲が伝わってくるようなエピソードだと思う。

さて、啄木は、札幌に似合うのは、高層階の建物ではなく平屋造りの大建物だと言った。
自転車ではなく人力車だと言った。
朝型の人たちではなく、夜型の人たちだと言った。

いずれも、東京と比べた、北海道の中心たる札幌に対する印象だったのではないだろうか。
この後、札幌は、都市の発展とともに、どんどん東京のミニチュア版へと成長していくことを、啄木は知らない。
「しとやかなる紫の袴」が調和した街並みには、今、流行のファッションが調和している。


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by kels | 2016-05-08 06:59 | 札幌文学散歩 | Comments(0)

石川啄木の札幌生活は、既に肌寒い札幌の秋の夜の雨から始まった

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わが宿の姉と妹(いもと)のいさかひに
初夜(しよや)過ぎゆきし
札幌の雨

「一握の砂」石川啄木(1910年)

石川啄木が札幌に到着したのは、明治40年9月14日の土曜日の午後のことである。

この日の日記には、次のようにある。

夕刻より酒を初め豚汁をつつく。
快談夜にいり十一時松岡君と一中学生との室へ合宿す。

「丁未日誌」石川啄木(1907年)

下宿屋の姉妹の喧嘩の話は、記録には残されていない。
女学校に通う女の子たちだから、仲が良ければ口げんかくらいはあったに違いない。
若い女の子たちと同居することに、あるいは、啄木の強い関心が向けられたのか。

気象庁の古い記録によると、この日の札幌では、深夜から未明にかけて雨が降っている。
傘を必要としないくらいの弱い雨だったらしい。
既に肌寒い札幌の秋の夜の雨から、啄木の札幌生活は始まった。

ところで、札幌には啄木の文学碑がいくつかあるが、この作品が刻まれた碑は、まだない。
下宿屋を詠ったものは、この歌だけだから、下宿屋跡あたりに、この歌を刻んだ文学碑があってもよいと思うのだけれど。


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by kels | 2016-05-07 05:47 | 札幌文学散歩 | Comments(0)

有島武郎の日記に描かれた明治時代の札幌の花見

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朝六時半起床。出校す。
二時間目より休業となりしかば有志相計りて丸山に遊ぶ。
桜花のまさに咲くあればなり。

桜の在る所、堂々たる札幌にして、只此一小仙園あるのみ。
至れば、桜株百内外之れを内地の名所に比すれば、巨人に対する一侏儒のみ。
而かも、我が目を喜ばして餘りあり。

此日、師範学校付属の生徒及び北海女学校の生徒来たりて、運動会を為す。
唱歌し、野球の技、蹴球の術、盛に戯るるの様、桜花の爛漫と夫れ何れぞ。

「観想録」有島武郎(1901年)

有島武郎の日記の中にも、札幌の桜が登場している。
上記は、明治34年5月13日木曜日の日記の一部抜粋だが、このとき、有島は札幌農学校の学生だった。
講義が休校になったため、仲間と一緒に円山公園まで花見に出かけた様子が記されている。

大都市・札幌にあって、桜の名所は円山公園1か所のみであると、有島は記録している。
その円山公園にあっても、桜の樹はせいぜい100株前後。
内地の人間にとっては、ささやかなものだったのかもしれない。

ちなみに、当時の花見はバーベキューではなかった(当たり前だが)。
有島も書いているように、当時は学校行事で運動会を行うことが多かったらしい。
野球やサッカーで盛り上がる花見というのも楽しそうだ。

有島の日記には、かつての札幌の情景が描かれている。
大人になるにつれて、観念的な悩みが多くなっていくが、明治時代の札幌を描いた貴重な記録である。
円山公園の桜が、古くから札幌市民に愛されてきた様子が分かろうかというものだ。


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by kels | 2016-05-05 22:07 | 札幌文学散歩 | Comments(0)

石川啄木は土曜日の午後に札幌入りし、翌日の日曜日には市内を散策している

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アカシアの街樾(ナミキ)にポプラに
秋の風
吹くがかなしと日記に残れり

「一握の砂」石川啄木(1910年)

石川啄木が、札幌について詠んだ短歌は4首と言われていて、いずれも歌集「一握の砂」に収録されている。
わずか2週間の滞在で4首だから、これはきっと多い方なんだろう。

さて、その啄木の日記だが、9月15日(日)に、こんな記述があった。

午后は市中を廻り歩きぬ。
札幌は大なる田舎なり、木立の都なり、秋風の郷なり、
しめやかなる恋の多くありさうなる都なり、
路幅広く人少なく、木は茂りて蔭をなし人は皆ゆるやかに歩めり。

アカシヤの街樾を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ、
朝顔洗ふ水は身に泌みて寒く口に啣めば甘味なし、
札幌は秋意漸く深さなり、

「丁未日誌」石川啄木(1907年)

前日の土曜日の午後に札幌入りした啄木は、翌日の日曜日に、早速市内を散策している。
このとき、まず印象に残ったものが、幅の広い道、アカシヤ並木、ポプラ、そして、風や水の冷たさだった。

気象庁の記録によると、この日の札幌の最高気温は16.8℃、最低気温は5.2℃。
朝夕の風は、さぞかし涼しかったことだろう。
啄木が出発した9月13日の函館の最高気温は23.4℃、札幌とはやはり気温差が大きかった。

突然寒い街にやってきて、なお、啄木は札幌を美しく描いている。
何と言っても「しめやかなる恋の多くありさうなる都」である。
市中では、さぞかし、オシャレで美しい女性の姿を見かけたに違いない。


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by kels | 2016-05-05 06:08 | 札幌文学散歩 | Comments(0)

石川啄木もまた、札幌停車場通りのアカシヤ並木に魅せられた若者の一人だった

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札幌は詩人が一生のうち一度は必ず来て見る価値ある所に御座候、
「静けく大なる田舎町」と評せば最も適切なるべくや、
四辺の風物が何となく外国風にて風俗も余程「内地ばなれ」がし、
そして人は皆日本人なるが面白く候わずや、
停車場の前通りなるアカシヤの街樾(なみき)の下をゆく人くる人皆緩やかなる歩みを運び居候。

「岩崎正宛て書簡」石川啄木(1907年)

啄木の書き残した文章には、札幌の駅前通りが盛んに登場する。
当時は、札幌駅を「停車場」と称し、駅前通りを「停車場通り」と称したという。
そして、停車場通りの象徴として描かれているのが、「アカシヤの並木」だった。

啄木は、よほどこのアカシヤ並木がお気に入りだったと見える。
実際、札幌を訪れた多くの文人が、駅前通りのアカシヤ並木について書き記しているところを見ると、旅人にとってはかなり印象の強い風景だったのだろう。
石川啄木もまた、札幌停車場通りのアカシヤ並木に魅せられた若者の一人だった。

多くの文人に愛されたアカシヤ並木も、今はもうない。
アカシヤ並木どころか、明治の世を偲ぶことさえ既に困難である。
札幌の表舞台である駅前通りは、札幌でも最も変貌の激しかった場所なのかもしれない。

もしも、啄木が現代の札幌駅前通りを見たとしたら、果たして作品に詠むほど感動したかどうか。


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by kels | 2016-05-05 05:08 | 札幌文学散歩 | Comments(0)

中城ふみ子の手紙に描かれた札幌の桜の季節

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この間大変な暴風雨で屋根がとんだりネオンが折れたりさくらもすっかり散ってしまいました。
今年はさくらの一つの花びらさへ見ることさえ出来ませんでした。
どなたか一枝持って来て下さったのでよろこんで挿して眺めてましたら梅だったのです。
私も実にぼんやりだけれど梅と桜と一緒に咲く北海道って何てこっけいなんでしょう。

「中井英夫宛て書簡」中城ふみ子(1954年)

この春、中城ふみ子は、故郷の帯広を離れて札幌で暮らしていた。
末期がんの治療のため、札幌医科大学付属病院に入院していたのである。
上記の手紙は、亡くなる4か月前に書かれたものだった。

当時、中城は、雑誌「短歌研究」の新人賞で特選を得て、歌人として全国デビューを果たしたところだった。
このとき、新人賞の選考を務めたのが、手紙の宛先である中井英夫である。
新人賞の受賞をきっかけとして、二人の濃密な文通が始まる。

医大病院に入院後も、中城は自由に外出できたらしいが、病状の悪化後は、その外出もままならなくなった。
前後に書かれた手紙によると、この頃の中城の手紙は、ベッドの上で仰向けに寝た状態で鉛筆で書かれており、熱は平均37.5℃、食欲不振で果物とジュースとお寿司だけおいしいとある。
いつも誰かにのどを押さえられているんじゃないかと思うくらい息苦しく、咳が出て、不眠が続いているような状態であったらしい。

気象庁の記録によると、この年昭和29年、札幌で桜が開花したのは5月4日のことである。
手紙が書かれた5月13日には、既に散り始めの桜が美しかったことだろう。


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by kels | 2016-05-04 06:16 | 札幌文学散歩 | Comments(0)

札幌の人の啄木好きは、そもそも、啄木の札幌好きに由来する。

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札幌はよい所なり、
安全に暮らすことさえできれば五六年は札幌に居たし、
札幌は大なる田舎なり、美しき木立の都なり、
アカシヤの並木に秋風吹き候、水は冷たし、静かにして淋しく、
しめやかなる恋のたくさんありそうなところなり。

「宮崎大四郎宛て書簡」石川啄木(1907年)

札幌の人の啄木好きは、そもそも、啄木の札幌好きに由来する。
わずか2週間暮らしたに過ぎないこの街を、啄木は相当にお気に入りだったらしい。
当時の日記や手紙からは、札幌に対する啄木の思いが溢れている。

そもそも啄木が札幌にやって来たのは、函館で焼け出されたからだった。
街を焼き尽くしたという明治40年の函館大火に、啄木も見舞われたのだ。
当時、働いていた新聞社も、代用教員として勤めていた小学校も、みな焼けたという。

知人の紹介で、札幌の新聞社に仕事を見つけて、啄木は札幌へとやってくる。
もっとも、仕事は新聞記事の校正係で、待遇も高くなかった。
すぐに、条件の良い新聞社に誘われて、啄木は小樽へと引っ越してしまう。

木立の都、秋風の郷、しめやかなる恋のたくさんありそうなる都、
大いなる田舎町に似て物となく静かに住み心地よき札幌に別れ候うは、
小生に於て決して楽しき事には無之候いき、
然も十五円の校正子より二十円の記者の方が、
貧乏に倦み果てたる小生には好もしかりに候。

「大島経男宛て書簡」石川啄木(1907年)

もっとも、啄木は生まれながらにしての流浪人である。
条件の良い仕事が見つかったとしても、札幌に定着することがあったかどうか。


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by kels | 2016-05-03 20:44 | 札幌文学散歩 | Comments(0)

石川啄木像は、多くの観光客が訪れる大通公園3丁目に設置されている

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札幌の秋の夜はしめやかであつた。
そこらはもう場末の、通り少なき広い街路は森閑として、空には黒雲が斑らに流れ、その間から覗いてゐる十八九日許りの月影に、街路に生えた丈低い芝草に露が光り、虫が鳴いてゐた。
家々の窓のあかりだけが人懐かしく見えた。

石川啄木「札幌」(1908年)

石川啄木が札幌で暮らし始めるのは、明治40年9月14日のことである。
札幌の新聞社に勤務するのだが、すぐに小樽の新聞社へと移ってしまう。
9月27日、啄木は小樽へと向かい、わずか2週間の札幌生活を終えた。

わずか2週間滞在したに過ぎないのに、札幌における啄木人気は絶大である。
市内のあちこちに文学碑があって、啄木ファンを集めている。

代表作「一握の砂」の中には、札幌に関する作品が4首収録されている。
その中でもっとも有名な歌が、例の「とうもろこしの焼くる匂い」だろう。
実際、この歌は、大通公園内の石川啄木像にも刻み込まれている。

しんとして幅広き街の
秋の夜の
玉蜀黍(たうもろこし)の焼くるにほひよ

「一握の砂」石川啄木(1910年)

この啄木像は、多くの観光客が訪れる大通公園3丁目に設置されている。
公園脇にひっそりとあるので、啄木と気付かない旅行者も多いらしい。
明治の世とはすっかり変わってしまったが、とうもろこしの焼ける匂いに、僕はいつも啄木の生きた時代を夢見ている。


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by kels | 2016-05-01 05:44 | 札幌文学散歩 | Comments(0)