カテゴリ:札幌文学散歩( 20 )

明治44年の春、高村光太郎は札幌にいた。

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北原白秋 様

札幌にも斯の如きものあり。
此は昨日の出来事に候。
今円山は花ざかり。

五月十日(絵はがき「札幌見番観桜会」)

高村光太郎(1911年)


明治44年の春、高村光太郎は札幌にいた。
都会の喧騒を離れて、月寒で羊飼いになろうとしたのだ。
光太郎28歳のときのことである。

札幌は桜の季節であった。
光太郎は、札幌の桜の絵葉書を、北原白秋に宛てて出した。
「円山」は花ざかりとあるから、光太郎も円山の桜を楽しんだのだろう。

やがて、桜が散る頃、光太郎も札幌を旅立った。
羊飼いの暮らしは、あまりにも過酷で、都会の青年には耐え切れぬものだったらしい。

by kels | 2017-04-29 20:51 | 札幌文学散歩 | Comments(0)

村上春樹の小説の中に、1980年代の札幌の記憶が描かれている

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僕は札幌の街につくと、ぶらぶらいるかホテルまで歩いてみることにした。
風のない穏やかな午後だったし、荷物はショルダー・バッグひとつだけだった。
街の方々に汚れた雪がうずたかく積み上げられていた。

空気はぴりっと張り詰めていて、人々は足下に注意を払いながら簡潔に歩を運んでいた。
女子高生はみんな頬を赤く染めて、勢いよく白い息を空中に吐き出していた。
その上に字が書けそうなくらいぽっかりとした白い息だった。

僕はそんな街の風景を眺めながら、のんびりと歩いた。
札幌に来たのは四年半ぶりだつたが、それはずいぶん久し振りに見る風景のように感じられた。

「ダンス・ダンス・ダンス」村上春樹(1988年)

村上春樹の小説の中に、1980年代の札幌の記憶が描かれている。
札幌の人間として、僕は素直にうれしいと思う。
「いるかホテル」は、未だに見つからないけれども。


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by kels | 2017-02-19 05:58 | 札幌文学散歩 | Comments(0)

戦後間もない時期に、佐多稲子は小樽を訪れている

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雪は和子の面にも吹きつけるほど激しく、降っている。
停電は、狭い一区画だけで、大通りの先は街燈もついていて、狂うように舞い落ちる雪片が、街燈のまわりで早い速度を浮き出させて見せた。

「雪の降る小樽」佐多稲子(1950年)

戦後間もない時期に、佐多稲子は小樽を訪れている。
かつての盟友であった小林多喜二の母親に面会するためである。
「雪の降る小樽」は、そのときの体験がモチーフとして用いられている。

舞台は12月半ばの小樽である。
いよいよ根雪になるらしい雪が、小樽の街を埋め尽くしていた。
地元の人々は「あいにくの雪で」と挨拶を交わす。

主人公の和子は、案内人の家で夕食を食べた後、吹雪の中、「南樽(なんたる)」の駅まで歩く。
目的地は「朝里」である。
汽車は吹雪のため、1時間の延着となっていた。

実は、このとき和子は、共産党の活動のために北海道を訪れている。
札幌、夕張、苫小牧、室蘭などを回り、各地で地元の活動家の人たちと意見交換をしていたのだ。
和子にとっては、これが初めての北海道だった。

そんな旅行の中で、小樽だけは和子のプライベートな目的地だった。
「十数年前に警察の拷問で死んだ作家Kの母親」を訪れるためだ。
Kの死体からシャツを脱がしたのが、Kの母親と和子だった。

激しい雪の中、和子はKの母親を訪ねていく。
案内役の人々は、北海道に根差した活動家たちで、それぞれの事情と生活と運動とを抱えている。
昭和20年代前半の北海道でなければ描けない何かが、そこにはあったのではないか。

雪降る小樽の光景が、戦後間もない時代の社会運動家たちを、美しく見せている。


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by kels | 2016-11-29 21:01 | 札幌文学散歩 | Comments(0)

この街が誕生した明治以降の時代であれば、札幌が描かれていない時代はない

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札幌開拓の経営は、明治二年十一月十日に始まった。
その年はことのほか積雪が少なく、寒気が過酷であった。
秋が深くなって、例年なら雪が来るのに関らず、深い霜が降り、夜毎に彼等を悩ました。

「札幌開府」寒川光太郎(1941年)

札幌を舞台とした小説は数限りないと思われる。
日本にして日本にあらずの北の島の都市である。
内地の人々を惹き付けるだけの、不思議な魅力を持っていた。

だから、札幌を舞台とした小説は、いつ、どの時代にも生まれた。
明治、大正、昭和初期(戦前)、戦後、そして現代。
この街が誕生した明治以降の時代であれば、札幌が描かれていない時代はない。

その中で、最も古い時代の札幌を描いたものは、開拓時代の札幌を描いたものということになる。
例えば、寒川光太郎の「札幌開府」は、まさしく島判官が札幌の街を築き上げようとする、その瞬間を描いている。
小説の舞台となった「札幌」としては、最も古い部類に属するものだろう。

「静かな夜じゃな、いつもこうかな蝦夷地は」
暫くしてぽつりと判官が口を切った。
「はあ、今宵あたりは雪かもしれませぬ」

「札幌開府」寒川光太郎(1941年)

冬が近づく季節になると、決まって僕は島判官のことを思い出す。
間もなく長い冬が訪れようとしている未開の蝦夷地で、彼は何を見たのだろう。
物語は限りない妄想を、僕たちに与えてくれる。


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by kels | 2016-11-28 20:44 | 札幌文学散歩 | Comments(0)

橋崎政の「伝記製造業」は、戦後間もない札幌が舞台となっている、興味深い小説だ

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高校を卒業してからの勤め先は、サトホロという北の都会にある、赤煉瓦の行政庁であった。
故郷から汽車で三時間あまり。
カッキリと碁盤割りになったまちなみが、いかにも能率的な健康美にあふれ、田舎ものの三郎兵衛を有頂天にした。

「伝記製造業」橋崎政(1957年)

北見出身の橋崎が北海道庁に就職したのは、昭和21年のことである。
役所勤めは長くは続かなかったが、戦後混乱期の札幌を、橋崎は行政の立場から垣間見ていた。
終戦後の札幌を知る上で、橋崎の作品には数々のヒントがあると言える。

「伝記製造業」はこうした戦後の混乱期を生きた男の物語である。
共産主義者だった橋崎は、戦後社会の不条理を、あえて軽妙なタッチで描こうとしているようにも思える。
家庭の犠牲となって売春婦となってしまった恋人を救うために、ひたすらに金を稼ぎ続けなければならない主人公が極めた道が「伝記製造業」だった。

物語の筋は置くとして、戦後間もない札幌が舞台となっているという意味において、興味深い小説だ。


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by kels | 2016-11-27 21:08 | 札幌文学散歩 | Comments(0)

芥川龍之介が札幌を訪れたのは、昭和2年5月のことである

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札幌――クリストは上に、大学生は下に、・・・「すすき野」と云ふ遊廓どこですか?
又――あの植物園全体へどろりとマヨネエズをかけてしまへ。
(傍白。――「里見君、野菜だけはうまいでせう。」)
又――孔雀は丁度キヤンデイの樣に藍色の銀紙に包まれてゐる。
又――有島武郎氏はポケツトの中にいつも北海道の地図を持つてゐる。

「東北・北海道・新潟」芥川龍之介(1927年)

芥川龍之介が札幌を訪れたのは、昭和2年5月のことである。
講演旅行で来道した折りのことであり、札幌では、北海道大学と大通小学校で講演している。
植物園を訪れたときの感動は、有名なフレーズとなっている。

もっとも、遠く北海道を訪れた記録としては、あまりに簡単で素っ気ない。
思うに、芥川に札幌の街は、それほど共感を得られなかったのではないだろうか。
「里見君、野菜だけはうまいでせう」という言葉には、芥川の本音があるような気がする。

記録によると、このときの一行のスケジュールは、かなりタイトなものだったらしい。
もしかすると、移動と講演との毎日に、芥川も疲れきっていたのかもしれない。
芥川にとっても、稼ぐための北海道旅行ではあった。

講演にはもう食傷した。当分はもうやる気はない。
北海道の風景は不思議にも感傷的に美しかつた。
食ひものはどこへたどり着いてもホツキ貝ばかり出されるのに往生した。
里見君は旭川でオムレツを食ひ、「オムレツと云ふものはうまいもんだなあ」としみじみ感心してゐただけでも大抵想像できるだらう。

「講演軍記」芥川龍之介(1927年)

久しぶりに、北大植物園へ行こうかと思ったけれど、結局、今週も行かなかった。
札幌の街は瑞々しい新緑に包まれている。
芥川も、この札幌の新緑の中を歩いたことだろう。


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by kels | 2016-05-29 20:00 | 札幌文学散歩 | Comments(0)

ライラックまつりで大通公園が賑わう中、吉井勇の文学碑だけが取り残されている

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家ごとにリラの花咲き札幌の人は楽しく生きてあるらし
大学のポプラ並木路往き往けば中谷宇吉郎現れて来るかに
啄木をふと思ひ出ぬ紋付の木綿羽織の色の褪せしを
時計台に夕日あはあはと射す見ればわが旅心地ここに極まる
永遠といふことなれどを思ひいぬ石狩平野見はるかしつつ

「北海道新聞掲載」吉井勇(1955年)

吉井勇が札幌を訪れたのは、昭和30年6月のことである。
この年、ライラックの花は、6月になっても咲き誇っていたらしい。
冒頭の詩は、大通公園の文学碑となるくらい市民に愛されている。

もっとも、ライラックまつりで大通公園が賑わう中で、吉井の文学碑は取り残された感じが強い。
本来であれば、まさに主役級のアイテムだと思うのだけれど。
文化置き去りの平成版ライラックまつりの象徴とも言うべきか。

せめてもう少しライラックの花に囲まれていれば、文学碑も浮かばれるのではないだろうか(笑)

ところで、来札時、69歳だった吉井勇は、明治時代の友人・石川啄木を思い出している。
「紋付の木綿羽織の色の褪せし」は、東京時代の啄木の記憶を詠んだものだろう。
吉井勇にとって、あるいは札幌の旅は、遠い啄木を偲ぶ旅だったのかもしれない。


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by kels | 2016-05-22 20:23 | 札幌文学散歩 | Comments(0)

石川啄木の恋した橘智恵子に関する資料が、札幌村郷土資料館に展示されている

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もう一通は橘智恵子からであった。
否北村智恵子からであった。
送った歌集の礼状である。
思い当たるのがあると書いてあった。

今年の五月とうとうお嫁に来たと書いてあった。
自分のところで作ったバタを送ると書いてあった。
そうして彼女はその手紙の中に函館を思い出していた。

「明治四十四年当用日記」石川啄木(1911年)

歌集「一握の砂」に詠まれた橘智恵子の家は、当時「札幌村十四」にあった。
東区にある「札幌村郷土資料館」には、橘智恵子に関する資料も保管されている。
智恵子の実家は、この資料館から徒歩でもさほど遠くはない。

久しぶりに資料館を訪ねると、昔と何も変わらない状態のままのように見えた。
啄木の恋い焦がれた女性に関する資料も、片隅にさりげなく展示されている。
啄木と智恵子との関係を象徴するかのような展示だ。

ここには、徒に啄木との関係を邪推するような説明は、ひとつもない。
智恵子は、兄の学友の元へ嫁いだ女性である。
夫以外の男性との関係について触れることさえ慎重であるべき話なのだろう。

啄木の智恵子に対する思いは、作品の中でのみ語られるものだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう考えてこそ、純粋な恋の作品を鑑賞できるというものではないだろうか。


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by kels | 2016-05-15 20:11 | 札幌文学散歩 | Comments(0)

石川啄木が恋い焦がれた橘智恵子の実家は、札幌市東区北11条東12丁目にある

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おととい来た時は何とも思わなかった智恵子さんの葉書を見ていると、なぜかたまらないほど恋しくなってきた。
「人の妻にならぬ前に、たった一度でいいから会いたい!」
そう思った。

智恵子さん!
なんといい名前だろう!
あのしとやかな、そして軽やかな、いかにも若い女らしい歩きぶり!
さわやかな声!

二人の話をしたのはたった二度だ。
一度は大竹校長の家で、予が解職願いを持っていった時、一度は谷地頭の、あのエビ色の窓かけのかかった窓のある部屋で---そうだ、予が『あこがれ』を持っていった時だ。
どちらも函館でのことだ。

ああ! 別れてからもう20か月になる!

「ローマ字日記」石川啄木(1909年)

石川啄木が恋い焦がれた橘智恵子の実家は、札幌市東区北11条東12丁目15番地にある。
いわゆる「石狩の都の外の君が家」だ。
当時、この一帯は、大きな果樹園(林檎園)であったらしい。

今、この地を訪れると、果樹園だった時代の面影はなく、住宅街が広がっている。
札幌の多くの果樹園と同じように、戦後の人口増加対策の中で、ここも宅地化が進んだものであろう。

それでも、橘智恵子の実家を訪れると、そこがかつて林檎園だったことを示す記念碑がある。
碑の周りには林檎の樹が植えられていて、真っ白い花が咲き始めている。
この地に林檎畑が広がっていたことを伝える、何よりの証だ。

碑の裏面には、地の主が、かつて札幌の林檎を世に広めたことが記録されている。
まさに「林檎の碑」だ。
札幌のひとつの歴史が、今もこうして記されていることに小さな感動すら覚える。

碑の最後に、詠み慣れたあの歌が、ひっそりと記されている。

石狩の都の外の
君が家
林檎の花の散りてやあらむ

「一握の砂」石川啄木(1910年)

白い林檎の花が、札幌の初夏を爽やかに告げていた。

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by kels | 2016-05-15 07:05 | 札幌文学散歩 | Comments(2)

石川啄木は札幌病院の裏で狂人の叫び声を聞いた

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札幌の秋の夜はしめやかであった。
そこらはもう場末の、通り少なき広い街路(まち)は森閑として、空には黒雲が斑らに流れ、その間から覗いている十八九日許りの月影に、街路に生えた丈低い芝草に露が光り、虫が鳴いていた。
家々の窓の火光(あかり)だけが人懐かしく見えた。

「『ああ、月がある!」
然う言って私は空を見上げたが、後藤君は黙って首を低たれて歩いた。
痛むのだらう。
吹くともない風に肌が緊しまった。

その儘少し歩いて行くと、区立の大きい病院の背後(うしろ)に出た。
月が雲間に隠れて四辺(あたり)が蔭った。
「やアれ、やれやれやれ――」といふ異様の女の叫声が病院の構内から聞えた。

「何だらう?」と私は言った。
「狂人(きちがい)さ。それ、其処にあるのが(と構内の建物の一つを指して、)精神病患者の隔離室なんだ。夜更になると僕の下宿まであの声が聞える事がある。』

その狂人共が暴れてるのだらう、ドン/\と板を敲く音がする。
ハチ切れた様な甲高い笑声がする。
「畳たたいて此方(こっち)の人ひとオ――これ、此方こちの人、此方(こっち)の人ツたら、ホホヽヽヽヽ。」
それは鋭い女の声であった。

「札幌」石川啄木(1908年)


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by kels | 2016-05-14 06:59 | 札幌文学散歩 | Comments(0)