カテゴリ:文学( 191 )

小林多喜二には北海道の冬が似合うと思う

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十一月の半ば過ぎると、もう北海道には雪が降る。(私は北海道にいる。)
乾いた、細かい、ギリギリと寒い雪だ。
――チヤツプリンの「黄金狂時代ゴールド・ラツシユ」を見た人は、あのアラスカの大吹雪を思い出すことが出来る、あれとそのままが北海道の冬である。

北海道へ「出稼」に来た人達は冬になると、「内地」の正月に間に合うように帰って行く。
しかし帰ろうにも、帰れない人達は、北海道で「越年(おつねん)」しなければならなくなるわけである。
冬になると、北海道の奥地にいる労働者は島流しにされた俊寛のように、せめて内地の陸の見えるところへまででも行きたいと、海のある小樽、函館へ出てくるのだ。

「北海道の「俊寛」」小林多喜二(1929年)

小林多喜二には冬が似合うと思う。
北国の夏は、格差社会の現実までも覆い隠してしまうくらいに過ごしやすい。
みんな、世の中の格差という現実さえも忘れて、短い夏を謳歌するのだ。

だが、北国の厳しい冬は、誰もが目の前の現実と向き合わなければならない。
突きつけられた寒さと飢えとが、今と明日とを考えざるを得なくしている。
多喜二の文章は、そんな北の人々の現実を容赦なく突きつけてくる。

北海道は、明治以降に開拓された歴史の短い島だ。
この島に渡ってくる人たちは、最初、誰もが過酷な条件の中で生きなければならなかった。
格差社会で原野を切り拓くことはできなかったのだ。

少しずつ街が大きくなって、少しずつ生活が安定してくると、少しずつ格差が生まれ始めた。
開道50年目を迎える頃には、この未開の地であった北海道にさえ、新しい格差が根付いていた。
そして、大正から昭和初期にかけて日本を襲ったデモクラシーの波が、北の果てにまでやってくる。

この「北海道の「俊寛」」は、昭和5年1月9日の大阪毎日新聞に掲載されたものである。
ノート原稿から、前年の12月21日に書かれたことが明らかとなっている。
昭和初期の年の暮れの北海道を描いた短い文章だ。

ハレの正月は、一年の中で最も格差社会を浮き立たせる瞬間かもしれない。
出稼ぎの労働者たちでさえ、故郷へ帰る者と帰れない者とに分けられる。
激しい吹雪と帰郷さえできない正月が、厳しい現実を彼等に突きつけているのだ。

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by kels | 2016-12-18 07:24 | 文学 | Comments(0)

夏になると読みたくなる作家の一人に夏目漱石がいる

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私は毎日海へはいりに出掛けた。
古い燻(くすぶ)り返った藁葺(わらぶき)の間を通り抜けて磯へ下りると、この辺にこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。
ある時は海の中が銭湯のように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。
その中に知った人を一人ももたない私も、こういう賑やかな景色の中につつまれて、砂の上に寝そべってみたり、膝頭を波に打たしてそこいらを跳ね廻るのは愉快であった。

「こころ」夏目漱石(1914年)

夏になると読みたくなる作家の一人に夏目漱石がいる。
深く考えたことがあるわけではないけれど、漱石の小説には夏の印象が強いのだろう。
明治から大正にかけての時代の日本の夏である。

「こころ」の冒頭は、まさしく夏の鎌倉から始まる。
一人で海水浴に来ている「私」が「先生」と出会うシーンだ。
都会の文化人が、夏の鎌倉の海岸で出会うシーンは印象的だった。

この部分の描写を読むと、大正時代の鎌倉が、いかに海水浴客で賑わっていたかが分かる。
そして、浜辺を賑わしているのは、やはり東京からやって来た「都会人種」だったらしい。
都会の人間が避暑のために海辺の街を訪れるというのは、今も昔も変わりはないのだろう。

さて、明日は海の日である。
たまには海にでも行きたいと思うけれど、果たして、それほど気温が上がるかどうか。


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by kels | 2016-07-17 04:56 | 文学 | Comments(0)

村上春樹の「風の歌を聴け」は、僕にとって、まさしく夏の定番ノベルである

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僕はビールとコンビーフのサンドウィッチを注文してから、本を取り出し、ゆっくりと鼠を待つことにした。
10分ばかり後で、グレープフルーツのような乳房をつけ派手なワンピースを着た30歳ばかりの女が店に入ってきて僕のひとつ隣に座り、僕がやったのと同じように店の中をぐるりと見まわしてからギムレットを注文した。

「風の歌を聴け」村上春樹(1979年)

夏が来るたびに読み返している小説というのがある。
村上春樹の「風の歌を聴け」は、僕にとっては、まさしく夏の定番ノベルである。
どれだけ読み返したか、今では分からなくなってしまった。

物語はシンプルで、文章は平易、文学作品としての奥行きはない。
そして、それが新しい時代の都市生活者そのものだったような気がする。
論じることさえ都会的ではない時代だった。

どこにでもありそうでいて、どこにもない洗練された暮らし。
大切なものは、そんな青春がきっとどこかにあるだろうと感じさせる、小さな希望である。
みんな同じような希望を抱いて、そして今年もまた、あの頃と同じような夏を迎えている。


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by kels | 2016-07-10 07:45 | 文学 | Comments(0)

小説を読むことがストレス解消になるなんて、ずいぶん久しぶりのことだ。

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年をとった給仕がそばを通りかかって、残り少なになったスカッチと水をながめた。
私が頭をふり、彼が白髪頭をうなずかせたとき、すばらしい「夢の女」が入ってきた。
一瞬、バーの中がしずまりかえった。
活動屋らしい男たちは早口でしゃべっていた口をつぐみ、カウンターの酔っぱらいはバーテンに話しかけるのをやめた。
ちょうど、指揮者が譜面台をかるくたたいて両手をあげたときのようだった。

「長いお別れ」レイモンド・チャンドラー/訳・清水俊二(1953年)

最近はとても忙しい。
おそらく、時間的な酵素き時間以上に忙しいはずだ。
仕事をしていないときにも、仕事がのしかかってくる。

もちろん、職業人であれば、そんなことは珍しいことではない。
仕事のことばかり考えながら死んでいく人生なんて、世の中にいくらでもある。
生きるということは、働くということと同義語であるとさえ言っていい。

週末になると、死んだようになって身体を休めている。
せいぜいコーヒーを飲んで本を読むくらいのものだ。
とてもじゃないけれど、写真を撮って歩きまわるだけの力がない。

結果として、小説を読む時間ができた。
せっかくだから、古いハードボイルド小説を読み返してみようと思う。
最初に手にとったのが「長いお別れ」だった。

小説を読むことがストレス解消になるなんて、ずいぶん久しぶりのことだ。


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by kels | 2016-06-19 20:57 | 文学 | Comments(0)

時の流れを観察するように、僕はこの街の傍観者でありたい

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今では日吉町にプランタンが出来たし、尾張町の角にはカフェエ・ギンザが出来かかっている。
また若い文学者間には有名なメイゾン・コオノスが小網町の河岸通を去って、銀座附近に出て来るのも近いうちだとかいう噂がある。

しかしそういう適当な休み場所がまだ出来なかった去年頃まで、自分は友達を待ち合わしたり、あるいは散歩の疲れた足を休めたり、または単に往来ゆききの人の混雑を眺めるためには、新橋停車場内の待合所を択ぶがよいと思っていた。

「銀座」永井荷風(1911年)

永井荷風は、「単に往来ゆききの人の混雑を眺める」ことが好きだったらしい。
彼は、混雑の一人となるよりも、傍観者でいたいと考える人だった。
どこか僕自身にも通じるところがあるような気がする。

街には興味深い観察物が溢れている。
古い建物や流行のショーウィンドゥやオシャレな女の子たち。
自分と関わることのないものが、この街を生み出している。

時の流れを観察するように、僕はこの街の傍観者でありたい。


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by kels | 2016-04-17 07:00 | 文学 | Comments(0)

北海道文化放送で、「橋本奈々未の恋する文学」の放送が始まった

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「旭川に行くのよ。ねえ、旭川よ!」と彼女は言った。
「音大のときの仲の良かった友達が、旭川で音楽教室をやっててね、
手伝わないかって、二、三年前から誘われてたんだけど、
寒いところ行くのが嫌だからって断ってたの。
だって、そうでしょ。やっと自由の身になって、行き先が旭川じゃ、ちょっと浮かばれないわよ。
あそこ、なんだか作りそこねた落とし穴みたいなところじゃない?」

「ノルウェイの森」村上春樹(1987年)

北海道文化放送で、「橋本奈々未の恋する文学」の放送が始まった。
http://uhb.jp/program/koisurubungaku/

第1回目の紹介作品は、村上春樹の「ノルウェイの森」。
旭川西高校出身の橋本奈々未が、作品の朗読を交えて紹介していく。
小説の中にわずかに登場する旭川市を舞台にしているあたりがおもしろい。

村上春樹の作品には、意外と北海道の実在の都市が登場している。
代表作「ノルウェイの森」では、登場人物の会話の中で、旭川に触れられている。
いわゆる「なんだか作りそこねた落とし穴みたいなところ」だ。

昔の話になってしまうが、僕も旭川では数年間を暮らしたことがある。
人口規模では、札幌市に次ぐ北海道第二の都市であり、地方自治法に定める中核市でもある。
もっとも、実際に暮らしてみれば、北海道の地方都市らしい街だということがわかるだろう。

札幌のように人を集めようとしたけれど、人口は簡単には増えない。
一生懸命に落とし穴を掘っても、まるで誰も落ちてはくれないように。
街の人たちは、そんな「作りそこねた落とし穴」の中で、静かで平和な暮らしを守り続けている。

そんな旭川の街を、橋本奈々未は、ちょうどよく暮らしやすい街だと感想を述べている。
故郷の街を「作りそこねた落とし穴みたいなところ」と表現されて、うれしい者はいない。
彼女自身、きっと時間をかけて、この作品を自分の中で消化していったのではないだろうか。

若い世代が文学について語る場面っていいなあと思う。

ところで、番組を観ていて驚いたのは、「ノルウェイの森」が発表されたのは、今から30年近くも昔のことだったという事実。
作品の舞台は、1970年前後だから、実に今から50年近くも昔のことということになる。
さらに、そんな古さを、今もって感じさせないというところに、この作品の本当の凄さがあるのかもしれない。


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by kels | 2016-02-21 18:25 | 文学 | Comments(0)

「ライ麦畑」という安住の地に馴染むことができなかった子どもたち

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でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、
小さな子ども達がいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、
僕はいつも思い浮かべちまうんだ。
何千人もの子どもたちがいるんだけれど、他には誰もいない。
つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。
僕のほかにはね。

それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。
で、僕がそこで何をするかっていうとさ、
誰かがその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。

つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、
どっからともなく現れて、その子をさっと「キャッチ」するんだ。
そういうのを朝から晩までずっとやっている。
ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。

「キャッチャー・イン・ザ・ライ」J.D.サリンジャー/村上春樹・訳(1951年)

この2週間くらいは、どうにも体調が良くなかったので、本ばかり読んでいた。
と言っても、新しいものを読む気にはなれなくて、古い小説を思い出したようにめくって。
何度読み返しても新しい発見のある小説というものが、世の中にはある。

「ライ麦畑でつかまえて」も、おそらくそういう小説のひとつだろう、と僕は思う。

ところで、こういう名作というのは、題名を知っていても内容を知らないという人は、意外と多いらしい。
「ライ麦畑でつかまえて」という作品名が、何を意味しているのか。
それは、この小説を読んでみなくては、やはり理解することはできないものだ。

それにしても、「ライ麦畑」が、僕たちにとって安住の地であるのだとしたら、そこから落ちていくことは、やはりきっと寂しいことに違いない。
そして、僕たちの周りでは、いつでもたくさんの子どもたちが、この「ライ麦畑」から消え続けているのかもしれないのだ。
「ライ麦畑」という安住の地に馴染むことができず、溶け込むことができず、受け入れてもらうことができず。

そんな子どもたちを救うことができるのは、やっぱり彼らの気持ちを理解することのできる者だけなんだろうなあ。
例えば、「ライ麦畑のキャッチャー」なんていうね。


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by kels | 2016-02-13 08:32 | 文学 | Comments(0)

有島武郎の「小さき者へ」は、切なすぎると同時に美しすぎる作品だ

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いよいよH海岸の病院に入院する日が来た。
お前たちの母上は全快しない限りは死ぬともお前たちに逢わない覚悟のほぞを堅めていた。
二度とは着ないと思われる――そして実際着なかった――晴着を着て座を立った母上は内外の母親の眼の前でさめざめと泣き崩れた。
女ながらに気性の勝ぐれて強いお前たちの母上は、私と二人だけいる場合でも泣顔などは見せた事がないといってもいい位だったのに、その時の涙は拭くあとからあとから流れ落ちた。

「小さき者へ」有島武郎(1918年)

最近は、「小学生のボクは鬼のようなお母さんにナスビを売らされました」という名前の絵本が売れているらしい。
病気だった母親が、自分の泣き顔を見せたくないために、小学生の子どもになすびを売りに出かけさせるという話だ。
もちろん、作者がなすび売りの理由を知ったのは、母親の死後のことである。

どんな親でも、子を思う心に変わりはない。
小さな子供を残して逝かねばならない母の心は、どれだけ無念のことだっただろうか。

有島武郎の「小さき者へ」には、幼い子どもたちを残して死んでいく母親の無念が、父親である有島の筆を通して、次から次へと溢れ出ている。
切なすぎると同時に、美しすぎる作品だ。

札幌、東京、鎌倉と、病気の妻を連れて移転した有島の生活を、作品では知ることができる。
幼い子ども3人を連れた家族の絆の強さが、文脈のあちこちから伝わってくるが、病魔は容赦なく妻の命を切り刻んでいく。
壮絶であるが故に、すべてを子どもたちに伝えたいと、作者は考えたのだろうか。


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by kels | 2016-01-24 07:23 | 文学 | Comments(0)

昨日東京で雪が降ったと思っていたら、今日は北海道もひどい天気になった

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暁方の三時からゆるい陣痛が起こりだして不安が家じゅうに広がったのは、今から思うと七年前のことだ。
それは吹雪も吹雪、北海道ですら、めったにはないひどい吹雪の日だった。
市街を離れた川沿いの一つ家は、けし飛ぶほど揺れ動いて、窓ガラスに吹きつけられた粉雪は、さらぬだに綿雲に閉じられた陽の光を二重にさえぎって、夜の暗さがいつまでも部屋からどかなかった。

「小さき者へ」有島武郎(1918年)

昨日東京で雪が降ったと思っていたら、今日は北海道もひどい天気になった。
もっとも、札幌あたりはまだ良い方で、道東・道北では、かなり大変な状況になっているらしい。
テレビのニュース番組では、記録的な大荒れを報じ続けている。

有島の長男が生まれたときも、そのようなひどい吹雪の日だったらしい。
「市街を離れた川沿いの一つ家」は、菊水1条1丁目に建っていた。
現在は公園になっているあたりの、本当に豊平川の河畔だ。

当時の住宅は、今でも北海道開拓の村で見ることができる。
古い建物とは言え、よくぞ吹雪の夜を耐えたなあと思わざるを得ない家だ。
吹雪の中で「けし飛ぶほど揺れ動い」たのも当然だっただろう。

有島武郎の小説には、このような北海道の厳しい冬が頻繁に登場する。
それほどまでに、北海道の冬の印象は強烈で、過酷なものだったのだろうと推測する。
当時の冬は、現代の冬とは比べ物にならないくらいに恐ろしいものだったはずだから。

とは言え、今回のような冬の嵐が来ると、人間って非力だなあと、いつも思うわけだけれど。


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by kels | 2016-01-23 06:44 | 文学 | Comments(2)

冬の北海道を描いた作品として、有島武郎の「カインの末裔」は、間違いなく代表的な作品だ。

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北海道の冬は空まで逼っていた。
蝦夷富士といわれるマッカリヌプリの麓に続く胆振の大草原を、日本海から内浦湾に吹きぬける西風が、打ち寄せる紆濤のように跡から跡から吹き払っていった。
寒い風だ。
見上げると八合目まで雪になったマッカリヌプリは少し頭を前にこごめて風に歯向いながら黙ったまま突立っていた。
昆布岳の斜面に小さく集った雲の塊を眼がけて日は沈みかかっていた。
草原の上には一本の樹木も生えていなかった。
心細いほど真直な一筋道を、彼れと彼れの妻だけが、よろよろと歩く二本の立木のように動いて行った。

「カインの末裔」(1917年)有島武郎

冬の北海道を描いた作品として、有島武郎の「カインの末裔」は、間違いなく代表的な作品だ。
もちろん、この作品は、ひと冬の物語ではない。
農民の暮らしを、季節の移り変わりの中で描いてみせたものだ。

それでも、この小説は、読者に厳しい冬を強く印象付ける。
それは、冬で始まり、冬で終わる、絶妙の構成によって計算されたものであるからだ。
作者は、北海道の冬を、作品の中で非常に効果的に活用している。

ある農場に、新しい移住者がやってくる。
夫婦と赤ん坊、そして馬。
それは、厳しい冬の北海道でのことだった。

破天荒な主人公は、周囲の反感を買いながらも、自分なりの農業を成功させていく。
他人の女房を寝取り、小作料も納めず、好きな酒を飲んだ。
しかし、人生は、自分の思いどおりになるものではない。

赤ん坊が病気で死に、馬は草競馬で大きな怪我を負った。
そして、農場主の豊かな暮らしと、自分の貧しい暮らしとのあまりの格差に打ちのめされる。

やがて、夫婦は農場を出た。
赤ん坊と馬の姿もなく。
それは、厳しい冬の北海道でのことだった。

主人公に決して感情移入できないということが、この小説の特徴だ。
一方で、人は誰しも、破天荒で野蛮な自分自身というものを抱えているものである。
「カインの末裔」というタイトルが、作者の意図を何よりも示しているのかもしれない。

あまりに定番すぎるけれど、冬になると読みたい小説のひとつである。


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by kels | 2016-01-16 06:51 | 文学 | Comments(0)