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戦後間もない時代の新聞を読むと、毎日のように住宅問題が取り上げられている

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建設すすむ市営住宅 板壁ながら引揚者には龍宮

解体材をめぐり紛糾に紛糾をつづけた授産博覧会資材は、ついに札幌市の手に帰したが、市ではこれで市営住宅八棟七十戸を総工費二百十万円で建設することとなり。
いま◆◆を押し分けて北二十四西五の市有地に来月完成を目ざして建築を進めている。
この市営住宅はアパート式で壁もない板張りの超耐乏住居ではあるが、家のない引揚者たちにはこれでも龍宮のような嬉しい存在。
市ではさきごろ行った住宅困窮調査に基ずき家のない人々に貸付けることになっている。

「北海道新聞昭和23年1月11日付け」(1948年)

戦後間もない時代の新聞を読むと、毎日のように住宅問題が取り上げられている。

増える人間に対して物理的に住宅が足りないという状況で、しかもその数は中途半端なものではなかった。
昭和21年だけで、引揚者数1万5千人(5600世帯)、戦災者数5500人(2000世帯)の受入れである。
東京のような大規模な空襲被害を受けたわけではない街としても、極端な住宅不足は明らかだった。

当初は、日本政府が収容施設の確保を図り、昭和23年以降は、札幌市としても、新たな国庫補助制度を活用して庶民住宅の建設を開始した。
昭和23年に市が募集した八十戸の住宅には、1500件近い申し込みがあったという。
市営住宅への入居は、まさしく夢のような暮らしであった。



by kels | 2017-10-15 18:15 | 歴史・民俗 | Comments(3)
Commented by J.W. at 2017-10-18 14:38 x
私はまだ市電の鉄北線があった頃、高校通学で北24条の電停を利用していたので懐かしい思いです。当時は樺太住宅などと呼んでいたような記憶もありますが、詳細は知る由もなく、勉学に励んでいた高校生でした。札幌は新しいようで意外に古い歴史も残る街なのですね。ありがとうございました。
Commented by J.W. at 2017-10-19 13:44 x
追伸ですが、当時(昭和40年前後)北24条の市営アパートに住んでいた同級生がいた。また、鉄北専が麻生まで延長されたのもその頃で、麻生団地という名称も記憶にあるが、まだ団地という呼び方は、一般化されていなかったのかもしれない。
Commented by kels at 2017-10-28 03:42
J.W.さん、こんにちは。
市電の鉄北線や麻生団地など、新鮮なワードに興味津々です。
戦後が歴史になりつつある今、過去を確認する作業も必要だなあと感じています☆
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