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007 遠友夜学校

「遠友夜学校」は、札幌の教育史に残る記念碑的な学校である。
札幌農学校2期生として学んだ新渡戸稲造は、明治27年にかねてより構想のあった私学を創設した。
札幌遠友夜学校創立百年記念事業会による「思い出の遠友夜学校」の中で、高倉新一郎は、遠友夜学校が誕生した当時の地域の状況を次のように記している。

南五条東四丁目、今でこそ札幌を東西に横断する国道に近く、中央繁華街はすでにこの付近に延びてきているが、当時は豊平川近く河原に臨んだ場末で貧民の集合所であった。

また、さっぽろ文庫18「遠友夜学校」にも、高倉新一郎の次のような記述がある。

当時この辺は豊平川原で、塵芥捨場であり、またその後も長く、貧民窟とか武士(さむらい)部落などとかいわれたような札幌の貧民の溜りでもあった。殊に札幌豊平河畔は北海道の貧民の溜り場であり、北海道自体は既開地で生活して行けなくなった者が集まっただけに、そして又冬の生活がむずかしかっただけに、その実状は最も悲惨なものであった。

こうした記述から読み取ることができるのは、この地区が細民街であったという歴史的な事実である。
そして、そうしたエリアだったからこそ、創始者である新渡戸稲造は、この場所に夜学校を創設する意義を感じていたのだろう。

夜学校の教師は、札幌農学校の教師や学生達が手弁当で参加し、生徒は経済的な事情により公的な教育を受けることのできない貧民の子ども達であった。
上の写真は、初代の夜学校校舎であるが、この校舎を舞台として多くの子ども達が巣立ち、多くの札幌農学校関係者が教壇に立った。
小説家として有名な有島武郎も、遠友夜学校で教鞭を執ったひとりで、当時の日記に次のような記載がある。

道に貧民窟なる豊平に出て夜学校に来りし時、優美なる唱歌の聞こえぬ。余は思はず月隈なき軒下に佇みて雙耳は全く唱歌に奪ひ去られ、之を聞くことなく稍々久しくて去り、二三間を歩み出でたる時、左側の茅屋より夜学校にて歌へる「夕空晴れて……」を微吟せるものあり。女の声なり。

その頃、有島は菊水の豊平河畔で生活をしていて、川原を歩いて豊平橋に出てから、橋を渡って夜学校に通っていたと思われる(当時の有島の住宅は、北海道開拓の村に保存されている)。
その後、大正3年になって、有島は短篇小説「お末の死」を発表した。
「お末の死」は、大正元年の豊平河畔の貧民窟を舞台として描かれた小説で、主人公の「お末」は夜学校に通う貧しい少女だった。
極貧生活の中で、家族との人間関係に疲れた少女が最後に自殺してしまう物語であるが、ここには有島が現実に見ただろう貧民街の暮らしぶりが描かれている。

主人公の少女「お末」には実在のモデルの存在が指摘されていて、彼女の名前は瀬川末といった。
瀬川末は遠友夜学校での有島の教え子であり、有島は後々まで、この瀬川の身の上を案じている。
遠友夜学校を卒業後も、有島は瀬川と会っているが、瀬川は私生児を産んだ後に自殺するという悲劇的な最後を遂げている。
こうした遠友夜学校を巡る物語の持つ悲劇的なストーリーは、そこが悲劇的な空間として成立していたことをうかがわせる。

札幌における細民の発生については、『新札幌市史機関誌 札幌の歴史 第16号』収録の『札幌における細民街の成立』(堅田精司)に詳しく報告されている。
それによると、札幌における細民街の出現は、明治10年代~20年代にかけてのことであり、その中心は「力役者(職工人夫)」の人々であった。
地域としては、南2条東2丁目周辺であり、創成川と豊平川とにはさまれた南東地域は、「力役者の町」を形成していたという。
初期の細民街は、定住する場所ではなく、力役者達が最初に住む場所であり、彼らは安定した職を得るとともに、やがて町を脱出していくという地域であった。
ところが、明治中期になって、この地域は正式な意味での細民街へと変質し、ここから脱出することは難しくなってしまったという。

遠友夜学校が登場したのは、まさしく細民街が定着を見せ始めた時期にあたる明治27年であり、新渡戸稲造の理想による貧民教育は、文字どおり貧民街の中にスタートしたのである。

現在、遠友夜学校の跡地には「札幌市中央勤労青少年ホーム(Let's中央)」が建設され、建物内部には遠友夜学校記念室も設置されている。
札幌の下層社会が歴史として正式に語り継がれているのは、この遠友夜学校だけで、それは新渡戸稲造を始めとした有志の功績であるといえるだろう。
by kels | 2011-05-01 07:00 | 歴史・民俗 | Comments(0)
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