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昭和20年に死んだ島木健作にとって、戦後の札幌はまだ見ぬ街である。

昭和20年に死んだ島木健作にとって、戦後の札幌はまだ見ぬ街である。_b0103470_20573817.jpg

札幌は特色のある町であったが、近年その特色も薄らぐか失われるかしてきたということを聞かされる。
昭和13年に、私は12ぶりでか生まれた町の札幌へ帰ったが、そのような感じがしないでもなかった。
そのような気がしたというのは何も格別のことではなく、少年時代の思い出のあったところなどが変わっていて、その変わり方がこの頃のどこの地方都市にも見るのと同じ模様であって、面白くなかったというだけのことである。

狸小路などという盛り場も、昔はもっと道幅が狭く、何かゴタゴタした侘びしいような感じの中に、雪国の半植民地の町らしいものがあったと思うのだが、今は道幅も広くなり、鈴蘭燈が並んで明るくなり、森永か明治の喫茶店がその通りを代表しているというようなことになって、半植民地的侘びしさどころか、人口20万人程度の地方都市にふさわしい繁華街ということになった。

「札幌」島木健作(1940年)

明治の札幌を知っている島木健作にとっては、昭和モダンの狸小路の発展ぶりを許すことはできなかったらしい。
東京あたりの「森永」とか「明治」とかいうメーカーのカフェーが並ぶのを見たとき、彼は懐かしき時代の狸小路を恋しく思い出していたのかもしれない。
時代の流れはかくも早く、人々は古き記憶の中の街を、いつまでも愛するものである。

ところで、先ごろ閉店したラルズプラザの跡にはパチンコ店が入るらしい。
空きビルにならずに良かったという声もあるが、またしてもパチンコ店である。
いつか、狸小路という名前だけが、狸小路を物語る歴史になっているかもしれない。

昭和20年に死んだ島木健作にとって、戦後の札幌はまだ見ぬ街である。
パチンコ店やカラオケ店が建ち並ぶ平成の狸小路を知らない分だけ、あるいは幸せだったかもしれない。
街にとって「発展」と「崩壊」とは常に隣り合わせであり、表裏一体のものである。


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by kels | 2014-07-12 21:14 | 文学・芸術 | Comments(2)
Commented at 2014-07-12 21:49 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by kels at 2014-07-13 21:53
鍵コメ様、こんにちは。
「毎月2~3回は道を聞かれる」はハンパないですね(笑)
相当の美人さんだと見ました!
歴史とか観光についての勉強、きっと楽しいですよ☆
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