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映画を観ながら、つくづく村上春樹の初期作品における「ギャツビー」の影響力を感じた

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「華麗なるギャツビー」の映画を観てきた。
映画そのものにはまったく期待していなかったけれど、ブルックスブラザーズが衣装を担当しているということで、映画の中に登場するスーツやらシャツやらを観たかったのだ。
などという予想に反して、映画そのものも面白かったので、とても満足。

ストーリーは、基本的には原作に忠実で、原作の持つ切なさをある程度感じることができた。
一部の演出に映画らしさを感じて辟易するものはあったにしても、突飛過ぎる羽目を外した展開はなかったと思う。
満足できない部分があったとしたら、演出やシナリオよりも配役の方だったかもしれない。

ところで、映画を観ながら、つくづく村上春樹の初期作品における「ギャツビー」の影響力を感じた。
アメリカの映画を観ているのに、村上春樹の小説のことを何度も何度も思い出していたのだ。
もちろん、それは決して悪い意味にではなく、僕にとっては優しいノスタルジーを感じる気持ちに似ていた。

センチメンタルで自己破滅型のスターであるギャツビーは、「ダンス・ダンス・ダンス」に登場する五反田君を思い出させる。
ギャツビーも五反田君も、ごく控え目な男性である物語の語り手に対して強い愛情を持ち、強い信頼感を寄せている。
二人の男が、大人の青春というものの切なさやはかなさを美しく描き出しているところも共通点かもしれない。

物語の語りであるニックとギャツビーとの関係は、「ノルウェイの森」におけるワタナベくんと永沢さんの関係性を連想させる。
傍観者に徹しようとするワタナベくんは、彼女がいるのに他の女の子たちともセックスをする永沢さんに巻きこまれ、彼の暮らしの表と裏に付き合わされることになる。
巻きこまれながらも、あくまで傍観者に徹しようとするその姿は、「ギャツビー」のニック・キャラウェイに相通ずるものがある。

「華麗なるギャツビー」の主人公は、やはり、語り手であるニック・キャラウェイだったのではないだろうか。
ジェイ・ギャツビーという一人の男性を描き出す過程の中で表現されているのは、ニックの強い感受性とプライド、そして鋭い観察眼である。
ニックの目を通して観察され、ニックの言葉を通して語られることにこそ、「ギャツビー」の価値はあったのだ。

ところで、ギャツビーがディジーに向かって次々とドレスシャツを放り投げていくシーンは、この映画の中でも重要なシーンの一つだったが、例の印象的な台詞がなかったのは、個人的にちょっと残念。
まあ、原作を読んでいなければ、格別ストーリーに影響する部分ではないので、仕方ないといえば仕方ないのだけれど。

あと、この物語は、一夏の出来事を描きだしたものなので、もう少し夏らしい季節感を演出してほしかった。
1920年代という時代を表現するには十分すぎるほどだったけれどね。


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by kels | 2013-07-06 06:33 | 夏のこと | Comments(0)
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