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僕の撮る写真のほとんどは、「使いみちのない風景」なんだろうな

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寝室の書棚をぼんやりと眺めていたら、見覚えのないタイトルの文庫本を見つけた。
「使いみちのない風景」村上春樹・文、稲越功一・写真と書いてある。
奥付を見ると、1998年発行とあった。

おかしな話だけれど、全然読んだ記憶がないのだ。
村上春樹のエッセイは好きだったから、ずいぶんいろいろと読んだことは確かである。
小説よりもエッセイの方が好きだと言っても、嘘にはならないだろう。

もちろん、エッセイの中にも、おもしろいものがあるのと同じように、つまらないものもあった。
だけど、読んだことを覚えていない本というのは、そんなには多くないような気がする。
つまり、この文庫本は、僕にとっても数少ない「記憶に残らなかった村上春樹」なのではないか。

そこから何かの物語が始まるかもしれないと僕は思う。
アリクイの夫婦の姿から、あるいはギリシャの若い水兵の目から。
でも、何も始まらない。
そこにあるのはただの風景の断片なのだ。
それはどこにも結びついていない。
それは何も語りかけない。
僕はそういう風景を「使いみちのない風景」と名付けている。
昔そんな題のアントニオ・カルロス・ジョビンの曲があった。
原題は「Useless Landscape」といったと思う。
歌詞の内容までは知らない。
でもそのタイトルの語感は僕を奇妙にひきつけた。
「使いみちのない風景」、なんて素敵なタイトルだろうと僕は思った。
僕らの中に残っている幾つかの風景、いくつかの鮮烈な風景。
でもそれらの風景の使いみちを僕らは知らない。

「使いみちのない風景」村上春樹(1998年)

考えてみれば、僕の撮る写真のほとんどは、「使いみちのない風景」なんだろうと思う。
どこにも行かないし、何も始まらない。
ただ、きっと自分の記憶に残るだろう、一瞬の鮮烈な風景を、無意識のうちに撮り続けているだけだ。

そう考えると、僕は自分の写真が、とても切ないものであるかのような気がしてくる。
だって、それらの写真からは何も始まらないし、どこへ行き着くこともないのだから。
写真は、ただ、「使いみちのない風景」として、僕の中にとどまり続けていくだけだ。

もちろん、だからといって、僕は写真を撮るという自分の行為を止めたりはしないに違いない。
たとえ「使いみちのない風景」であっても、それは、僕にとってとても大切な風景であり、鮮烈な記憶には違いないからだ。
何も始まらなくても、何も語りかけてこなくても、それらの風景は、僕の中でずっと生き続けてくれる。

「日常的な普通の風景を写真として撮る行為」というのは、きっとそういうことなのだろうと、僕は思う。
結局のところ、何かを始める必要も、どこかへ辿りつく必要も、最初からないのだ。
そういう写真の本当の「使いみち」というのは、誰だって自分自身だけが知っていれば、それでいいということなのだろう。


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by kels | 2013-06-08 22:30 | 写真・カメラ | Comments(2)
Commented by よりむーん at 2013-06-08 22:58 x
いつも「何気ない風景」を撮影されているkelsさんの記事を
私はとっても楽しみにしてますよ!!
そして、写真に向き合ういい刺激になっていています!!
Commented by kels at 2013-06-09 23:14
よりむーんさん、こんにちは。
僕は「何気ない風景」にカメラを向けるので、いつでも周りの人たちに、不思議そうな顔をされます。
一体、何を撮っているんだろうって、きっと思っているんだろうなあ(笑)
いつもありがとうございます!
お互いに頑張って、好きな写真を撮りまくりましょう☆
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