北海道立文学館に行って「ふみくらの奥をのぞけば」展を観てきた

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北海道立文学館に行って「ふみくらの奥をのぞけば」展を観てきた。
展示は今日が最終日で、僕はギリギリ滑り込むことができたわけだ。
僕はいつでも余裕のない暮らしをしている。

「ふみくら」は、文学館の文庫・収蔵庫の名前である。
だから、言ってみれば、本展示は所蔵品展に過ぎない。
所蔵品展であっても、展示物は十分に見応えのあるものばかりだった。

北海道に関わりを得た多くの文学者に関する資料が展示されている。
直筆原稿もあれば、書簡があり、色紙がある。
北海道文学史を俯瞰することができる、貴重な展示だ。

言葉を換えると、北海道文学展と言っても良いような気がする。
あるいは、北海道文学展とは、このような展示だったのではあるまいか。
北海道文学オタクには、充実の展示だった。

このような展示で北海道文学を俯瞰してから、個々の文学者の活動に深く入っていけば良い。
北海道文学の入口として、今回のような展示は、ぜひ常設展のような形で披露していただきたいなと思う。
それだけの価値のある特別展だった。


# by kels | 2017-06-18 19:38 | 文学 | Comments(0)

昭和の時代、アカシアの花は歌謡曲によく登場していた

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アカシアの白い花が見ごろを迎えている。
アカシアの樹は背が高く成長するから、青空に真っ白い花がとても良く映える。
この季節、札幌市内のあちこちで、アカシアの白い花が咲き誇る。

もっとも、札幌の人たちは、アカシアの花ではあまり騒いだりしない。
桜、ライラックと続いた花に対する情熱は、どこか一休みしている感じがする。
アカシア祭りでもあれば、市民の注目度もまた違うのかもしれない。

昭和の時代、アカシアの花は歌謡曲によく登場していた。

アカシアの花の下であの娘がそっと涙を拭いた赤いハンカチよ。
アカシアも散った恋の街さっぽろ。
アカシアの雨に打たれてこのまま死んでしまいたい。

アカシアは、人々の暮らしをドラマチックに演出してくれる存在だったのだ。

古い本を読むと、札幌駅前通りには、大きなアカシア並木があったらしい。
札幌がアカシアの街と呼ばれた由縁である。
道路も舗装化されていない時代、人々はアカシア並木の白い花の下を往来していたのだ。

だから、背の高いアカシアの木立を見つけると、僕は思わずうれしくなってしまう。
札幌の街に白い花が咲き誇り、人々の視線を奪い合っていた時代。
札幌は間違いなく詩の都であり、恋の街であった。
# by kels | 2017-06-18 18:24 | 夏のこと | Comments(1)

一日が始まろうとしているように、札幌の短い夏が始まろうとしている

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札幌の夏はさわやかである。
空気が乾燥しているから、気温が三十度前後に上っても本州のように鬱陶しくはない。
明るく、輝かしい夏である。
首のつけ根の骨が少々目立っても、夏の軽快な服を着て、この夏も太陽に親しみたい。
夏は短いのである。

「健やかに」原田康子(1965年)


夜明け前から目を覚まして音楽を聴いていた。
少しずつ空が明るくなって、やがて美しい青空が広がった。
ようやく6月の札幌らしい空だ。

窓を開けると、札幌の朝の爽やかな風が流れ込んでくる。
街はまだ目覚めたばかり。
6月の札幌の晴れた早朝の時間が、僕は何よりも好きだ。

一日が始まろうとしているように、札幌の短い夏が始まろうとしている。
# by kels | 2017-06-18 06:41 | 夏のこと | Comments(0)

本物のコーヒーは全自動のコーヒーメーカーで淹れるものだと、僕は信じていた

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ぼくは、コーヒーを一杯、淹れてきた。
オートマティック・ドリップ・コーヒーメーカーを使って淹れたコーヒーだ。
粉はマクスウエル・ハウスの、オートマティック・ドリップ用のコーヒーで、粉の量はほんの少しでいい。
かたむけたコーヒー・カップから例によって最後の一滴が落ちていこうとするところが、缶に貼ったラベルに描いてある。
マクスウエル・ハウスの標語のようになっている、「最後の一滴までおいしい」(グッド・トゥ・ザ・ラスト・ドロップ)という文句が、その最後の一滴に添えてある。

「コーヒーもう一杯」片岡義男(1980年)


日曜日の早朝、僕は淹れたてのコーヒーをゆっくりと飲んでいる。
コーヒーはもちろんハンドドリップで淹れたばかりのものだ。
買ってきたばかりの豆を、コーヒーミルで丁寧に挽いた自家焙煎珈琲。

子どもの頃、本物のコーヒーは全自動のコーヒーメーカーで淹れるものだと、僕は信じていた。
片岡義男の小説に登場する都会的な暮らしに、コーヒーメーカーはとても良く似合っていた。
そして、珈琲豆は、本場アメリカのもの以外は、みんな嘘のような気がした。

今でも僕は、あの頃のコーヒーメーカーには夢があったような気がしている。
ブリキ缶の中に入った焦げ茶色の粉コーヒーと全自動コーヒーメーカーのある暮らし。
都会的で洗練された生活が、僕たちの憧れの時代だった。
# by kels | 2017-06-18 05:48 | カフェ・喫茶店 | Comments(0)

昔、好きな音楽のレコードを買い集めては、カセットテープに編集をした。

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コーヒーといっしょに、三枚のLPを、部屋に持ってきた。
そのうちの一枚をジャケットから取り出し、ターンテーブルに、いま僕は乗せた。
針をおろす。
聴きたい曲は、B面の二曲目だ。

フィニアス・ニューボーンのジャズ・ピアノが鳴り始める。
バラッド奏法に徹している。
曲名は「ブラック・コーヒー」という。

「コーヒーもう一杯」片岡義男(1980年)


昨夜、iPhoneに大量の音楽を加えた。
いずれも、1950年代から1960年代にかけての古い洋楽ばかりだ。
好きな曲や懐かしい曲を検索しながらダウンロードするには、随分と時間を要した。

エディ・コクラン、ザ・ダイアモンズ、ザ・ゾンビーズ、デル・シャノン、サム・クック、ロネッツ、ソニー・ジェイムス、ザ・サーチャーズ、ザ・ビーチ・ボーイズ、レイ・チャールズ、エヴァリー・ブラザーズ、エルヴィス・プレスリー、バディ・ホリー、、、
そして、いちいち数え上げたらキリがないくらいの音楽を、僕は一日中かけて聴いた。
古い音楽を、こんなにもまとめて聴くというのは、実に久しぶりのことのような気がする。

昔、好きな音楽のレコードを買い集めては、カセットテープに編集をした。
カセットテープで音楽を編集するには、iPhoneの比ではないくらいに膨大な時間を費やした。
おまけに、後になってから曲順を自由に変更したりすることはできない。

今にして思うと、ひどく不自由な時代だった。
けれども、僕たちは、その不自由さの中で、それなりにきちんと楽しみながら生きていたような気がする。
カセットテープの編集にさえ、物語があり、ドラマが隠されていたりした。

あの頃に戻りたいとは思わないけれど、あの頃を懐かしいとは思う。
決して悪くはなかった時代だと信じている。
好きな女の子にプレゼントするために、一晩かけてオリジナルのカセットテープを編集していた時代。

それにしても、大量の音楽を聴くには、本当に便利な時代になったなあと思う。




# by kels | 2017-06-17 18:26 | 音楽 | Comments(0)